わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

自我あれこれ・・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか②

私はずっと、前記事①で紹介した某セミナーや心理学・スピ系の本の影響で、ヌーソロジーのいう顕在化にも自己成長、自我の成長が必須だと信じていた。

「いつもの私と考え方、物事の捉え方、気持ち・気分がまるっきり違う。」という過去の一連の経験から得た気づきを生かすこともできなかった。自分が成長してそこに到達するんだという目標に変質させてしまう。
結果、自我を変えようとする。ヌーソロジーに対して「頭でわかったつもり」になるという同じことを繰り返し、長い間何も変わらず・・・という状況になる。

以下、私が患った「頭でわかったつもり症候群」の症状である。

●人間の外面、青、noos=良い、人間の内面、赤、nos=良くない、スマル=悪いに分類してた。
→今思うと、可笑しいやら、恥ずかしいやら。しょうがないなあ・・・と思うが、自己を成長させようと必死だったのだろう。そういうことにしておく。

シリウス言語の解釈がコロコロ(当時はそう感じてた)変わることに大丈夫かなと不安になった。
→ヌーソロジーを“わかってるということ”を不動点の代わりにしていたのだから、その代替物が不安定なのは許せなかったということだろう。

●半田さんが宗教教育の厳しい家庭で育ったのは本で知っていたけど、それが某新興宗教で、かつバリバリの幹部のおうちだったとブログで知って不安になった。
→いわゆる伝統宗教ならまだしも明治以降にできた宗教団体や組織なんてという偏見が強かった。利害を追求し排他的になる、組織としての宗教が問題なのであって、新旧は関係ない。ヌーソロジーの構造が身体性に結びつけば、組織としての宗教とは正反対のものであることは自明のことだ。

●半田さんと意見や考えが同じどうか、認められるかどうかを気にする。
→これは2013年のレクチャー1回目の出来事が象徴的。自我ってそういういうものだと今は思う。

●考えることより感じることの方が大事だと思ってた。
→自分が感じること–––––これにこだわっていた。このこだわり、自我ならではだと今は思う。前に通っていたセミナーの影響だ。
しかしこれは、今どこで感じているか、正確にいうとどこで思考しているかによって、全く正反対の方向に向かう恐れがある。感じよう、感じようとして、すごく苦しくなったからよくわかる。今思えば、「おいっ、違うだろ」って方向へ行って苦しくなるのだ。真逆になる。
自分と物、自分と空間の関係を構築するヌースの思考をしていけば、この間違いはなくなる。
「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。 意識進化とはそういうものです(p. 149人神アドバンス)」
これに尽きる。

少し話がそれるが、半田さんが「ヌースは〈頭だけだ〉とか、〈身体性がない〉とかよく言われる」と度々tweetしているのを見かける。そんなふうに頭で判断している人たちに伝えたい。実にもったいないと思う。能動的思考に伴うものを経験したら、そんなこと言ってられないよ。思考のあとから、すべてついてくる。
まずは、思考する。思考だもの、合わなかったり気に食わなければ、そう思考するのをやめてしまえばいい。捨てればいい。

自我のことを書いてきたが、今も私は自我だけのモードと、自我と不動点の両方を意識しているモードの二つを行ったり来たりしている。どれだけ意識的でいられるかで、その割合が徐々に変わってくるのだ。