わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

ブログ名を変更します。

ブログを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。

ブログのタイトル『ヌーソロジーを学んでいます』を変更します。
そう決めたきっかけは、率直に言ってしまえばサロンメルマガ『スピナーズ』1月分第49号になります。
きっかけはメルマガですが、この半年ほど私の中に思うところが育っていった結果だと思います。
ヌーソロジーは学び続けますが、標榜するのはやめようと決意しました。

これからは、ヌーソロジーを学び始める前から知りたいと思い続けている「わたし」について自由に書いていこうと思います。もちろんヌーソロジーの観点から書いていくことにはなると思います。「意識の違いは空間の違いである」という私の経験に最も近いものがヌーソロジーですから。
今まで通り、時折思い出したかのような、いい加減な更新にはなります。

『わたしを知るもの好きがたり』をどうぞよろしくお願い致します。

2024年立春 松浦 由佳 

追記
ここまでは昨日2月4日にupした文章です。
いつもならばブログ更新のことはX(旧Twitter)で告知するのに今回はしませんでした。
これは私の弱さです。本当のことをしっかりと話すことが怖かったから。
私が何もわかっていないことを晒すような気がして怖かったからです。
でもそれもやめようと思い、追記することにしました。

メルマガを読んでタイトルを変えようと思った理由は二点あります。
サロンという閉ざされた場での発言なので、この公開の場で内容を引用するのは間違っている行為だという認識はあります。しかしあえて引用します。もちろん半田広宣さんご本人に確認はとっておりません。抗議があればもちろん削除します。
ただヌーソロジーが今後、人間の認識を変えていくという大きな責務を担っているのなら避けて通れないことのように感じています。私は人間の「認識を変えていく」ことが最も大切だというOCOTの発言に心から同意しているので、ヌーソロジーの可能性を信じています。しかし今回のメルマガをきっかけに「ヌーソロジーを学んでいる」ということを標榜する自信がなくなった、恥ずかしいという思いが湧いてきてしまったというのも事実です。

一つは松本人志氏についての以下の記述です。

結論から言えば、報道されているニュースが事実であるのなら、彼の行為は著名人として、あまりに自覚を欠いた行いであり、当然、TVをホームグラウンドとして富と名声を得たからには、同じメディアによって裁かれるというのも当然の報いだとは思う。ただ、彼自身の初期対応のミスも手伝って、騒ぎは拡大していくばかりで、この間、文春の方は二弾、三弾、四弾と執拗に暴露記事を畳み掛け、Youtubeでは再生数稼ぎ目的の連中がこぞって似通った動画を垂れ流し、気がつけば、トップ芸人の松本人志はひと月も経たないうちに極悪非道の人非人のようなイメージに変えられてしまった。こういう言い方をすると、女性の皆さんからは大変、顰蹙を買うかもしれないが、別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない。一芸能人のスキャンダルにここまで世間がヒートアップする必要もなかろうにと僕なんかは思ってしまうのだが。他人事ながら、ここまでくるとさすがに気の毒だ。

事実は裁判でも明らかになっていないので松本氏の事件のことについては何も言えません。
でも私が気になったのは「別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない」という一文です。これが性加害についての半田さんの見解かと思うと大変なショックを覚えました。このメルマガについてのXのポストにも「某芸人の性加害事件の話についての感想」とありました。なのでこれが半田さんの性加害についての見解であると認識しました。
確かに刑罰の量刑から言えば性加害は殺人よりも軽いです。
しかし私は性加害はその人の魂に対する加害だと思っているので、その罪の重さは殺人とさして変わらないと考えています。

もう一つは「社会のホワイト化」についての記述です。長くなりますが引用します。

昔、ドゥルーズが、地球の裏側で起きたことを、まるで自分の足もとで起こったことのように感じることのできる感性のことをさして、「左翼的なもの」と言っていたが、今は、この感性がまるまる悪い方向へと転倒し、「遠く起きている事を自分事として感じ取り、近く起きていることを他人事と感じ取る者たち」で溢れかえっている。まさにヌーソロジーでいうところの他我化そのものだ。自分の現実に目を向けたくない人間ほど、見ず知らずの他人のことに口を出したがるものだが、その原因は、本人が外的自己(他人から見た自分)に囚われてすぎているところにある。他人から見た自分と、自分から見た自分は全く違うものなのだから、外部の評価に悩まされる必要など、もともとないのだ。他人の言葉に振り回されて、一度、自己否定なんてしてしまおうものなら、それこそ、スマル一直線、クズ化する。
 で、最近、この傾向にますます拍車をかけそうな言葉を耳にした。「社会のホワイト化」というやつである。言い出しっぺはかの岡田斗司夫氏なのだが、彼によれば、最近は社会がどんどんホワイト化して行っているのだと言う。「社会のホワイト化」とは、「美しいものは正しい」ということを絶対の価値基準とする風潮のことを言う。ホワイト化した社会では、見た目が美しければ、それは正しいものとされ、逆に、汚なければ、それは正しくないという烙印を押される。極端な話、見た目が悪い人間は中途半端な人間であり、最近では、不潔なものや気持ち悪いものを許さない社会になってきているというのだ。もちろん、これはパブリックでの話であって、プライベートの話ではない。パブリックとプライベートはきれいに二分されている。つまり、パブリックであればあるほどキレイであることは当たり前で、キレイでないものは社会から排除されていく。そういう話だ。僕には、まるで、現実の社会自体がメタバース化して行ってるかのような話に聞こえるのだが。。

ということは、これから先の時代はどこもキラキラで、キレイが正義の、見た目至上主義の社会になるということなのだろうか。目に見える部分、うわべの表面だけが私たちの価値判断の基準となる社会。これは、ヌースでいうなら、最終構成による、人間社会に対する当然の要請と言えるのかもしれない。というのも、現代人にとって最もダーティーなもの、忌み嫌われるものは「死」に他ならないからだ。つまり、汚いものを見たくないとする欲求は、無意識による死の隠蔽につながっているということだ。

 自分はそんなにキレイである必要もないと思っているのに、社会にキレイさを強要され、自分もその価値観を受け入れ、それに無条件に追従していくなら、自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく——普通の言い方で言えば、外の外の方向へと意識の位置が落ちて行っているも同然だろう。これは、徹底して世界から自己なるもの(人間の外面)を排除しようとする無意識の流れのようにも見えるのだが、皆さんはどう考えるだろうか?

 今までも、私たちは人間の内面に生み出された外的自己の姿をもって同一性の世界の中へと投げ込まれ、その中で、差異としての学歴や収入、社会的地位やルックスなどで人の優劣を判断し、そこで差別意識も生まれていた。しかし、そこにはまだかろうじて、人間性や人格といった内的自己に価値を見ようとする方向性も残っていた。社会のホワイト化はそれさえも切断しにかかっているというのは言い過ぎだろうか。人間の価値観を完全に人間の内面の中に封じ込め、もし、外面的なものとの完全な切断を図ることがホワイト化の正体であれば、社会のホワイト化とは、ブラックホールの中への落下以外の何ものでもない。 

ここに書いてあることに何の異論もありません。他我化についても「社会のホワイト化」についても全くその通りだと思います。

ではなぜ問題視したのかというと、この「社会のホワイト化」の本質「自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく」ことに、生成AI画像と同じ本質があると考えるからです。

以前にも書いたように、生成AI画像の生成に使われるビッグデータは多数の数値化された情報です。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうことになります。
生成AI画像の描写力、線の美しさ、発想力は人間が描く絵を超えていると思います。
しかしこれはうわべの表面だけの美しさであり、そこに人間の持つ持続は全く含まれていません。美しさだけで生成AI画像を礼賛する姿勢に疑問を持ちます。
さらに生成AI画像が見る者にどのような影響を与えるのか、実際にはまだよく分からないものだと思います。
私自身は生成AI画像を出力した経験は僅かしかありませんが、プロンプトを入力し出力した本人が生成AI画像を見る場合と、そうではない人が同じ生成AI画像を見る場合ではその影響が全く違うと予想しています。

最終構成の対化として現れている生成AI画像。この扱いについては慎重になって然るべきだと思います。他者に自分の出力した画像を見せることの意味を考える必要があるのではないでしょうか。
「社会のホワイト化」も最終構成の現れです。ならば同じこととして生成AI画像についても考えて欲しかったというのが率直な気持ちです。

長くなりました。ここまで読んでいただきありがとうございます。
何かございましたら、Xまで返信をお願い致します。

2024年2月5日 松浦 由佳  

 

 

AI生成画像とヌーソロジーと私

 

先日、AI生成画像について以下を書き込んだ。

今も時々目に入ってくるが、その際に感じる「何もない感じ」という感覚は今も変わらない。
今回は、AI生成画像は芸術となりうるのか、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかという2点について私なりの考えを書きたい。

私にとって芸術とは心を動かし感動を与えてくれるもの。芸術には他者に何らかの影響を与える力があり、その力は制作者の持続よるものだと考えている。制作者の持続に触れるからこそ、何かしら心が動くのだ。

AI生成画像は芸術か。芸術の定義を制作者の持続の含むものとするならば否だと思う。
芸術の範囲はどこまでかを考えた際、長年アニメを愛好している者としてフルCG画像との比較が適しているのではないかと考えた。
先日も述べたが、手描きセルのアニメからすると、フルCGアニメの強度は低く、薄っぺらい印象を抱いてしまう。しかし、AI生成画像を見るときに感じる「何もない感じ」ではない。何かしら僅かにでも制作者の持続があると私なりに感じている。
なので両者の出力過程の違いが「僅かながらの持続が残る場合」と「何もない感じ」という差異を生み出しているのではないかと思った。

CG画像を作るために、例えばBlenderなどのアプリに入力する。入力する内容は、入力者のそれまでの経験(持続)が反映され、それがそのままプログラム処理されて出力される。例えば形、色、位置、動き…etc。入力者が判断し決めることは意外とある。
一方のAI生成画像を出力した経験はないが、調べたところ呪文と呼ばれるプロンプトを入力するとのこと。プロントそのものには、確かにプロンプト入力者の経験(持続)が反映されるだろう。なのになぜ出力された画像にプロンプト入力者の持続が感じられないのか。
それはAIが処理するディープラーングの過程でビッグデータが使用されていることによって、入力者の持続が無効化されてしまうからではないだろうか。ビッグデータは多数の数値化された情報でしかない。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうのだと思う。

なのでAI生成画像には制作者の持続は含まれていないと結論づける。
中身の伴わない表象。それがいまのところの私の見解である。

では次に、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかについて。

これも私は役立たないと考えている。むしろ必要のないものだと思う。
そもそもヌーソロジーは思考による認識の変化を最も大切にしている。

半田さんがOCOT情報から彫塑したケイブコンパス、NC、ヘキサチューブル。
ヌーソロジーを理解するために必要なツールは、これで十分だと思う。
この3つは地図であると同時に顕在化への変換装置となっている。
なぜなら、これらを通して能動的にカタチを思考し、認識を変化させ、自らの持続空間を立ち上げる、いや発見することができるから。

私は、ヌーソロジーのいう能動的思考は、ベクトルのように方向性とエネルギーを持つと思っている。(これはアニマンダラさんの講座を受けて考えたことだが、自我の問題と絡めて、別にまた書きたい。)
方向性が大事だというのは、ヌーソロジーの人間の外面、人間の内面という概念の理解につながっている。エネルギーは人間の外面においては持続に相当する。

AI生成画像には持続はない。あるのは表象のみ。それも他者がイメージしたものである。
持続を伴わないAI生成画像を見て、その他者の表象に引っ張られ、本来の顕在化の方向とは真逆の方向に行ってしまうのではないかと強く懸念している。
能動的思考により認識を変化させ自らの持続空間を目の前に発見し、そこで自らがイメージすること、身体を通して実感することのほうがずっと大切だと思う。
これに尽きるのではないだろうか。

 

追記
上記を書き上げた2日後、生成AIのAdobe Firefly無料版で小一時間遊んでみた。
プロンプトは、私自身があらかじめイメージしているものから言葉を選び、具象、抽象どちらの画も出力させたが、どれも「何もない感じ」がした。
自ら出力させて気付いたことは、Blenderで感じたときのめまいのようなものとは違う、行ったり来たりする鏡合わせのような揺れを感じたこと。
半日経った今も脳の真ん中やや後ろあたりで重いような違和感を感じている。

出力された画を見て、自分の思い描いていたイメージとの一致やギャップから考えること、その画を見て感じること。それら一連の作業が精神の方向性を見出すための負荷となるという考え方もあるとは思う。なんでも経験と割り切って一度試してみるのもありだろう。

ただ、自分がイメージし、プロンプトを入力した画と、他者が出力した画には大きな差異、真逆の方向性があることは心に留めておいた方がいいと思う。

 

ジュビレ・デュ・プリンス・ドゥ・モナコ 11月24日京成バラ園にて

身体とNCと2軸

(以下に書く内容は、あくまでも私の直観、身体感覚に頼った仮説です。 ヌーソロジーをもとに考えてはいますが、勝手に解釈したものです。 この投稿も【もの好き勝手解釈】というカテゴリーを設けて分類しました。)

 

4〜6月に行われた最上和子さんの計3回のワークショップに参加した。
以来、少なくとも2日に1回は教えて頂いた稽古を行なっている。
私が教えて頂いた稽古は床稽古、スロー、歩く稽古の3つ。毎回そのうちのひとつを行なっている。

概要を簡単に説明すると、床稽古は5分かけて床に仰向けになり、そのまま10分身体の力を抜きながら横たわっている。その後10〜20分かけて立ち上がる。
スローは、胡座をかいて座り、目の前に置かれたお湯飲みには視線を合わせず、お湯飲みを両手で取り、水を飲んで、床にまたお湯飲みを置くところまでを10分かけて行う。
歩く稽古は、3メートルほどの距離を10分かけて歩く。

動きを細かく細かくし、身体の様子を微細に感じていく。動きは止めない。
動きを微分していくことで〈モノ〉の中に入ること、〈モノ〉そのものであることを身体を通して実感するための試みだと思っている。

先日、半田広宣さんのX(Twitter)にこんなやりとりがあった。

UFOさん @dWpUByKQW7AIgM4
日本人の古来の歩き方は右手右足が同時に出るナンバ歩きだったそうですが、現代よりヌース的だったのではないでしょうか? 的外れかもですが
半田広宣さん @kohsen
まだよく分かりませんが、その可能性はあります。内と外の意識の捩れが癒着して見えなくなる以前の意識がそのように身体を整序していた可能性があります。体軸が一本ではなく二本あったとでもいうのか。。
川瀬統心さん @AwakesToushin
「体軸二本」は、例のアマントジュンさんの縄文身体論ですね。そしてジュンさんによるとさらに重要なのが、二軸になることで中心軸が空洞になる事の様でした。

これを読んでとても気になり、天人純さんのインタビュー記事を読んだ。

天人さんは日本の古い動き方を研究しているうちに、環太平洋火山帯の地域の人々が同じ身体の動かし方をしていることに気が付かれたそうだ。
身体の中心の軸がなく、2本の軸で身体を動かしていくというもので、現在でも武道での刀の抜刀や振り方、弓道の動きにみられるとのこと。

私は歩き稽古をしてる際、どうしても片足になる瞬間にグラグラと身体の軸がブレることが気になっていた。背骨を意識しながら、もちろん、ヌーソロジーのいう無限遠点も意識しながら歩いていたが違和感をずっと感じていた。
そんな時に天人さんの2軸の考え方を知り、さっそく試してみた。
30分かけて往復で6メートルほどの距離を歩いた。
2軸を意識し、さらにナンバ歩きのように下半身と上半身の動きを捻じらず同じ側で歩くつもりで動いてみた。
グラグラすることが減り安定した。片方の踵が床から離れ、着地させ、体重を移動させながらわずかに意識も左右に移動させる。真ん中は中空だ。

最初は2軸というより筒のようにも感じた。でも筒でもない。
途中、片方の軸に身体をのせるイメージにしてみた。体重移動のたびに2本ある体軸の1本にのせる感じ。
するとまたグラグラして安定感が無くなった。2軸が2本になってはダメだということが分かった。
わざわざ2軸と2本という書きわけをしたのは、このとき虚と実の違いを感じたからだ。
これがNCとの関連を思いつくきっかけになった。

次の日、また同じように30分の歩き稽古をした。
2軸は虚であり、中心は中空。これを感じながら歩いているときにNC、ヌースコンストラクションの図が浮かんできた。

画像

(図は半田広宣さんのTwitterからお借りしました。)

このNCを、身体を真上から見たときに見える図として当てはめてみた。
身体の背骨の中心をヌーソロジーでいう重心(図では±0の位置)にする。
左右2軸を垂質の−無限遠点(他者側)と+無限遠点(自己側)とした。

垂質ではなく、上次元の構造が球精神に畳み込まれた状態と考えた方がいいと今では思っている。
球精神の直径の自己側の点、他者側の点を天人さんのいう2軸としてみた。
重心も球精神の直径の2点(無限遠点)も虚の点だ。
身体の真上からみると、身長分の長さがあるように感じるが、これも虚軸。実軸ではない。
もちろん球精神の直径も虚軸なので、例えば背骨の左右5センチのように左右の軸に距離があるわけでもない。肉体とは違う。身体空間はあくまでも持続空間であり実数では捉えられない虚の空間だ。

この直観にもとづき歩いた時、今まででいちばん力を必要としない歩き方になった。とても安定していて、ブレることはなく、更に細かく足を運ぶさまを感じとることができた。

身体の左右に他者と自己の位置がある。
おそらく下半身、上半身が他者側*の自己他者だろう。ここで捩れがおこっている。
身体に四値があるという仮説だ。
そしてこれも仮説にすぎないが、天人さんのいう2軸は日本語の精神が感じとらせてくれているのではないだろうか。環太平洋地域と大きく広げるとそのあたりの言語がわからないのでなんとも言えないが、少なくとも「日本語は付帯質を前に持つ」というOCOTの言葉から、日本語を母語としている日本人が持続空間としての身体へ直結しやすいのは日本語の精神によるところなのだろうと思う。

最後になぜ私が身体、身体空間に注目するのか。
ひとつは直観を得るため。もうひとつはヌーソロジーのいう構造、カタチの答え合わせをして腑に落とすため。
最上さんに教わった稽古で味わう感覚は、どんな動きにも適用できるものだろうと今は考えている。日常動作、スポーツ、西洋の舞踏であるバレエなどにも。
それが日本語話者ならではの強みだとも思っている。
日常動作、日常生活が座ることと同じになるような動きをしたいというのが壮大な目標だ。

いったんこのままupしてみるが、サロンの質問箱で半田さんに質問してみようと思う。
実はこの投稿は、質問するための説明の目的で書いた側面もある。
Twitterの文字数を気にしながらだと書きづらいと思ったから。
頂いた回答は半田さんの許可を得られたならば、またブログにupしたい。

なつうまれさんのセッションを受けた!

〈えっ、成仏していない⁉️〉
〈私に憑依している⁉️どういうこと❓〉
呆気に取られて、ただ聞いてることしかできない。でも心の中では焦りつぶやきまくる。
私の人生に「成仏」とか「憑依」という単語が関わってくるとは夢にも思っていなかった。

なつうまれさん(Twitter @natsu0371 https://peacetherapy.simdif.com
のリーディングセッションが気になったのは、9月下旬。飯田幸代さんのQHHTのセッションが終わってしばらく経ってからだったと思う。「スピナーズにお会いするとしたら次はどなたがいいかな」なんて考えていた時に思いついた。しかしカメラを注文した直後だったし、10~11月は秋バラの撮影に没頭すると決めていたから「だいぶ先だな、来年かな」なんて思っていた。

11月下旬、急にセッションを受けたくなった。HPから申し込む。すぐにメールを頂いた。
私の守護天使が2ヶ月ほど前に「井の頭公園でセッションお願いします」というお知らせを送っていたらしい。力強い戦士のような存在とのこと。
セッションが気になったのが2ヶ月前の9月下旬❗️なんと😲なつうまれさんワールドに驚き惹き込まれながら、数日後の新月の日に井の頭公園でのセッションが決まった。

初めてお会いしたとき、とても驚いた。
TwitterYouTube、HPの若々しい印象から、てっきり30代の方だとばかり思っていたから。
私より年上なんて……そんなに鈍くはないと思っていた自分の感覚に正直自信を失った。

ごあいさつをし、半田広宣さんの井の頭事件の話をしながら歩いていて、急にセッションが始まった。

半田広宣さんとお話ししたと思われる大木

なつうまれさんが、後頭部に痛みを感じているとのこと。亡くなった親戚のことを聞かれ、母方の祖母のことを思った。
祖母は、ある日急に倒れ、そのまま意識が戻ることなく数日後に亡くなった。
その祖母が成仏できずに私に憑依していて、そのことによって私が“ひっくり返って”しまっていると、なつうまれさんに告げられた。
「突然の死が受け入れられない」、「お坊さんを呼んでお経を上げてもらえなかったから成仏できない」と言っているらしい。
祖母は何十年も月に一度、四国八十八ケ所巡拝を模した順路ひとつひとつにお賽銭を置いて祈るほど、お不動様を信仰していた。
いわゆる直葬という葬送形式になったのは、金銭的な問題と、婚家は神道という宗教の違いによるものだと思う。

なつうまれさんが心の中で般若心経を唱えると、すぐに祖母はお礼も言わずに天に昇っていったとのこと。
お水と大好きだったものをお供えしてほしいと言われた。
しかし、死してなお肉体がなくなっても、そんなこだわりが残っているなんて・・・
祖母とは中3の時に長く過ごすことが多く、その時に言われたあるたった一言が大人になっても引っ掛かっていたのは確かである。
でも憑依先が自身の二人の娘や、近所に住んでいて仲の良かった他の孫達(私の従兄弟)でなく私だったとは・・・
そのことに驚きが隠せず、その後なつうまれさんが言っていることにも上の空であった。

セッション後半で言われたことはあまり覚えていない。祖母の好物の文明堂のカステラを購入し帰宅後、わずかにメモできた以下のことだけだった。

・私は高次元の存在に支えられて今まで来たことを受け入れる必要があって、1人でやってきたわけではないことを知ること。彼らにもっと助けを求める要請をしていいらしい。

・死ぬことへの恐れというより、死ぬ過程での痛みや苦しみへの恐れがあり、それは罪悪感によるもの。根本原因は過去世で殺戮を楽しんだから。殺すことを弄んだらしい。他の人にやってきたから苦しみや痛みを恐れているとのこと。

これにはなるほどと思うことがあって、以前好きなアニメをツイートしたことがあるが、その方向性とは真逆で好きな作品群がある。『BLACK LAGOON』、『CLAYMORE』、『ゴールデンカムイ』、『ヨルムンガンド』…命のやりとりがメインの、まあ沢山の人が死ぬアニメ。殺人鬼の心境に立とうと思えば立てる感じ。こういうのが好きなのはなんでかなと思っていたのだが腑に落ちた。

井の頭事件の現場。半田広宣さんはこの池へダイブ!

そしてセッションを受けた夜、春を待たずにもう1回受けた方がいいという直感に従って、6日後の奇跡的に空いていた時間に申し込んだ。
天空の助けを得るため外でのセッションがいいということで、デパートの屋上で受けることになった。
開始早々「また憑依されている」と言われて「エッ!」となったが、これは前回とは違うものらしい。
なつうまれさんによると、通常人間はヌーソロジーでいう「人間の内面」に意識が落ち込んでいる状態にあり、これが「他者に憑依されている状態」とのこと。
自我はそもそも他者によって構成されているものだから、これはすぐに納得できた。人間の外面を意識するためのサポートを受ける。

その後、私自身のブロックを外し、第1、2チャクラを開くためのセッションを受けた。
相当の抵抗があったらしく難航したが無事に開くことができたらしい。意識できてはいないのだけど^^;
その後ヌーソロジーのことを色々となつうまれさんとお話しでき、とても楽しい時間が過ごせた。

最後に、前日夜に受けたというメッセージのメモも頂いた。
それによると大昔のパターンに起因している未解決の問題があり、それが今生にでてきているそうだ。
「何かしなければいけない」というコントロールゲームを手放すこと。全てを管理コントロールしようとすること。
これを手放して主体の私を信頼し人生の流れに乗ること。
これって、幸代さんのセッションでも言われたことだ(笑)

今回、このブログを書くまでに2ヶ月近くを要している。
もともと文章を書くのが苦手なので、本当に書こうという気にならないと指が動かない。
それだけ消化に時間がかかった内容なのだとも思う。
なつうまれさんの守護天使さんによると、彼女が本格的に活動を開始するのは2023年からだと以前から言われているらしい。
だからきっと年を跨いで今こうやって書くことになったのだと、私自身に言い訳をしている。
立春前に書くことができて本当によかった。

【追記】
上の内容をアップする前に、なつうまれさんに見ていただいた。前回のQHHTの記事の時も同様にしている。
2点付け加えてほしいと言付かった。了承を頂いたのでそのまま引用する。

①「憑依とかおばあちゃんの事とか、本当はあちらの世界では違う事が起こっているのですが、こんな表現にしないと伝えられないもどかしさの中、わたしも頑張ってるな❣️と思いました。
なので、補足として、この様な表現をせざるを得ないのが今時点の限界であります。と付け加えてもらえると嬉しいです✨」

②「過去世のお話の補足ですが、過去世とは人間が考える様なものではなくて、過去世の私と今の私は別の者と考えてほしいです。殺略をして来た過去世を持っているのではなくて、ゆかちゃんの奥行きにある情報を語った。と捉えていただけたらと思います。」

OCOT情報では、そもそも輪廻転生はないとされている。私自身には過去世の記憶などない。
ただ思うのは、どんな過去世があったとしても「今の私」ではない。今の私が何を選択するかだけが大切だと考えている。
そもそも人間の自我の本質は他者であるというのがヌーソロジーの考え方だ。
「物質と精神の区別をなくすと同時に自我の自己同一性を解体していく」というヌーソロジーの目指す方向性において、過去世というものは、今の自我を知るための単焦点レンズの一つ程度に思っていればいいと考えている。

お土産に頂いたお手製の生松葉のサイダー。
さわやか微炭酸♪😋 泡、わかるかな?

 

飯田幸代さんのQHHTセッションを受けた!

飯田幸代さん(https://www.mitrahabano.com/home)のQHHTセッションを受けた顛末、感想等をまとめてみる。

8月下旬、私は自らを思考の檻に閉じ込め、感情の沼に溺れてもがいていた。あまりに苦しくてこのままではヤバイという自覚はあった。「誰かに助けを求めたい」と思った時に浮かんだ顔が幸代さんの顔だった。ヌーソロジーサロンやΦさんの物理教室でご一緒していて、セッションをされていることは知っていた。

8/29。最も早い10/31のセッションを申し込んだ。とても人気があって2ヶ月待ちだった。お返事によると10/31はタッチの差で埋まってしまったが、9/19にキャンセルが出たという内容だった。
「早く受けられる!」希望が叶い、驚いた。“なるようになってる”という根拠のない感覚もあった。セッションの詳細を読み「当日、質問リストをお持ちください」、「カフェインを控えてお越しください」という文言が目に入ると、翌日9/1から準備期間として色々取り組もうと思い立った。

幸代さんのHPに『QHHT®は、サブコンシャス(自分の情報をすべて内包している存在)と自分自身が繋がり、直接対話をする催眠メソッド』と説明があるように、セッションは私が催眠状態に誘導され、サブコンシャス(ハイアーセルフと考えていいらしい)と共振しメッセージをもらうという内容だ。
ガチガチ左脳人間の私は「私、催眠状態に入れるか?大丈夫かな?」と不安になった。その不安を払拭するために、ヌーソロジーのいう「人間の外面」、つまり無意識方向へ意識を向けられる手助けになるものは何かと考え、以下のことを実験をすることにした。

①ネット/SNS/TVに極力繋がらないようにし、自分に集中する。もちろんアニメも見ない。先送りできない場合(録画がない物理教室、急ぎの用事etc.)はOKとする。
②肉/魚/卵/乳製品を食べない。
③カフェインをとらない。コーヒー紅茶を飲まないついでに、甘いものを食べない。
④思いついたこと、浮かんだことを日々その場でノートに書き留める。
ネット等に繋がらないことでできた時間は、アナスタシアや辻麻里子さんの著作、スピノザ の入門書を読む時間に充てた。

この中で一番最初に禁断症状が出たのがTwitterだった。4日目あたりから気になり始めた。無理もない。半田さんのツイートを読むことが10年来の日課になっていたし、気になるものは気になる。我慢するのが苦痛になり、9/10以降はチラチラっとツイートを読んだりした。「Twitterはしない」ことを貫けなかったが、そのことで自分自身を責めなかったのは逆に自信につながった。
そのほかのことはセッション当日の9/19まで続けることができた。意外だったのは、お菓子を食べたいと全く思わなかったことだ(無類の甘い物好きの、この私が‼︎)。何か食べたくなったら素焼きのミックスナッツをつまんでいた。この先も食べたいと思わないのかもしれない、と今書いていて思う。他には大好物の納豆卵かけご飯が無性に食べたくなったり、後半立ちくらみが数度起きた時に「ラムももが食べたい」とつぶやいたりしたが、我慢している感じや苦痛感は全くなかった。

セッション当日。台風が近づいていたが雨にも降られず幸代さんの部屋までたどり着いた。幸代さんの印象はzoomでお見かけした感じと違っていた。華やかな印象だったのだが、穏やかな優しさが際立っていた。初めての場所だと緊張しがちなのに、居心地よく感じられて、ほっこりした気持ちになった。

事前インタビューは占星術のプチオプションもつけたので約4時間。ずっと喋りっぱなしだった。この私がよくこれだけ喋れたものだと今は思う。あちこち話が飛び、途中泣きながら話を続けた。一時強い雨風が窓を叩いたり、明るい日差しが射したりと、安定しない空模様とリンクしてる感じさえした。思ったことをそのままさらけ出して話すことができたのは、幸代さんのお陰だ。彼女のニュートラルな姿勢や懐の深さが私を安心させた。ホロスコープ の解説もわかりやすくて自分の持つパターンを知ることができた。

いよいよ催眠の時間。ベッドに横になったって彼女の声に耳を傾けた。それほど深く入っていないような感じも受けていて、イメージが見えるのかと少し心配していたが…見えた。目の前のことをただ話していく。そして後半はサブコンシャスが彼女の質問に答えていくというスタイルだ。大きく心を揺さぶられることが何度もあり、その度に泣いた。私のテーマは一貫していた。サブコンシャスから「傲慢だ」とお叱りを受けたが、愛されていることを強く実感できた。

催眠から目覚めベッドから起き上がるときに「本当に催眠に入ってたのか?これって作ってないか?茶番じゃないだろうか」という疑いの思考が頭をよぎった。“あるある”らしい。振り返りの時間になって、私が持参した梨を幸代さんが皮をむいてくださって二人で食べ始めた。一切れ目を口にした時、甘くなくて水気もほとんど感じられなかったので「今回の梨はハズレか〜」とショックになった。「かおり」という名前の梨で、美味しい時はとびきり甘くてジューシー、大好きな品種だ。今年初めて見かけたのでグラウンディングの際の食べ物として持参した。栽培が難しいらしく確かに品質は安定しない印象があった。しかし「ここまで美味しくないとは・・・」という私の動揺をよそに、幸代さんは「美味しい♪」と食べている。気を使ってくれているのだろうか、と思いながら二切れ目を一口、二口と食べ進めていると、突然とんでもない甘さと果汁が溢れた。「甘い!私、催眠入っていたんだ!」と気がついて大声を出していた。疑い深い私に対してのサブコンシャスの手配だと気がついた。

セッション終了時に催眠部分を録音したものを頂くのだが、今回は幸代さんが切り忘れていたらしく振り返りの時間も録音されていた。当日の夜そのことについてサブコンシャスから「あれはね、梨食べてたら人の話なんか聞けないでしょ。食べることに集中しているから。だから、だよ」と言われた。確かにメモをとってなかったと途中で後悔していたから録音されいて嬉しいと思っていた。それに翌日に録音を聞いた時、梨の甘さに気づいて大声を出している自分の声を聞いて、やっぱり催眠に入っていたんだと妙に納得していると、「でしょ?」といたずらっぽく話かけられた。

QHHTセッションを受けると決め、準備期間に自分と向き合い、セッションを受け、録音を聞く。この一連の流れ全てがサブコンシャスが私のために用意してくれたもの。準備期間中にいくつも答えが見つかったものもあったし、既に対話していることもわかった。それら全てを私は楽しんで取り組めたことが、とても嬉しいし大きな自信に繫っている。今までも、これからも一緒にいてくれることが実感できた貴重な経験だった。
幸代さん、本当にありがとうございます。

お酒を飲まなくなったことetc

お酒を飲まなくなってから2年2ヶ月。それまでは冷酒から熱燗まで嗜む辛口の日本酒好きだった。ビールも好きだった。
きっかけは誕生日のすき焼き。いつもなら日本酒を飲み、最後はうどんで締める。しかし、その日はうどんを買い忘れ、ご飯を炊くこととなった。
すき焼きは割下を入れる前に最初の2枚をネギ塩で食べる。和牛特有の脂を纏い、少し焦げた刻みネギの味を知ってから定番になっていた。その日はパートナーが「これをご飯で食べようよ」と提案してきた。ご飯と一緒に日本酒を飲みたくないので躊躇したが、食べたことのない組み合わせへの好奇心が勝った。
食べてみると、ご飯と一緒の方が美味しい!ご飯、ネギ、和牛の脂の3者の甘みが噛むほどに混じり合って口に広がる。心が踊った。
その後もご飯と共に食べ続け最後まで日本酒を飲むことはなかった。

ここから日本酒やビールと合わせて美味しいと思うものを片っ端からご飯で食べるようになった。お米が美味しい。初めて思うことだった。色々なお米の品種も食べ比べて好みを探し出し、今では雑穀を入れたりもしている。

それからお酒を飲むことがなくなった。

半年後、父の誕生日でもある元旦に実家へ行った。日本酒好きは父の影響で、その日もお節を肴に5種類を利き酒することになっていた。飲むかどうか迷ったが父の誕生日だしお相伴にあずかることにした。
久々の、それも自分では買わないような日本酒もあり利き酒は美味しい。蔵元の水の違いがよくわかる。そして、お節は日本酒のためにあるとも思える。それぞれの酒の性格と食材の組み合わせを試すと楽しい。ナマコの内臓の塩辛である“このわた”は、さすがにご飯では合わないだろうと思う。
しかし、飲んでわかった。日本酒そのものの味は好きだけど、酔っぱらうことが嫌いになっていることに気づいた。酔っている状態に自分を置きたくない。

それからは一切お酒を飲んでいない。今年の元旦は飲まなかった。飲みたいとも思わない。

こうやって気がついたらお酒を飲まなくなったのだが、それに伴い味覚も変わった。辛いもの好きだったが食べられなくなったのだ。麻婆豆腐とカレーが大好物で痺れるほどの激辛にしていた。パートナーは辛すぎて泣くハメになったこともあるぐらい。それが今では全く無理になった。

肉・魚料理も食べることが減った。昔、肉食は良くないと考えて食べないこともあったが、無理に禁止すると反動で余計に食べてしまっていた。それが今では週1、2回になっている。年齢の影響もあるかもしれないが。

このように自然と変わっていくという経験を他にもしている。
私にとって記念すべき2015年以降、ダイエットをしているわけではないのに5年かけて体重が10キロ以上減った。昔はダイエットしてはリバウンドを繰り返していた。それが食べたいように食べているだけなのに今では上下の変動がほとんどない。

無理なく自然に変化していく。
流れに身を任せる。
それが私には合っているとつくづく思う。

「ふるさと」って?

わたしには「ふるさと」というものがない。
生まれた時から父の転勤で引越しが続いた。
父は実家と縁が薄く、冠婚葬祭にしか戻らなかった。母は高校まで「ふるさと」で育ったが、その後、母の両親(わたしの祖父母)と共に東京に出てきてからは、祖父母宅には頻繁に出入りしたものの「ふるさと」には戻らなかった。
よって、わたしには正月やお盆の帰省、お彼岸やお盆の墓参りという経験がない。
根なし草のような感覚があったのだろうか。小学生の頃から団地の一角に割り当てられた小さな畑に野菜を育てていた。きっと無意識に大地とのつながりを求めていたのだろう。
現在住んでいる地域は実家にも近く、過ごした年数も人生の中で一番長くなった。しかし、ここを「ふるさと」と思ったことは一度もない。

以前こんなTweetを読み、イザイホーの動画、計2部を見た。

共同体の儀礼。その島に生まれ育った女性が神職者になるためのもの。
イザイホーが「女なるもの」の表れであることは直感的にわかる。深いエロスもあるのだろう。しかし、どうしてもこれを受け入れることのできない何かを感じた。

わたしは、土地との縁が薄いばかりか、女性性を受け入れたとは言い難い人生を送っている。子供を産み育てた経験もないし、一時は女性性を否定した経験もしている。だから女性であって女性ではなく、「女なるもの」の対極の成れの果てのようなものだ。

そんなわたしが斜めから引いた目線で見たイザイホーに感じたものは、無言に当たり前のように被さってくる、和や協調という名の全体性。ムラ社会。黄泉のイザナミ
自我が個として自覚され、自分軸を持てるようになるのは近代以降。それ以前の個が成り立っていない状況のものにとても違和感を感じてしまう。そして新しいイザナミがその力を発揮するのは、顕在化以降、もっと先のことだと考えている。

今読んでいるアナスタシアシリーズでは「一族の土地」と言って、1ヘクタールのダーチャ(農園)に木を植え、家を建て、野菜を作り、そこで子供を産み育てるという考え方がある。
また、4巻には「祖国」についての以下のような文章がある。

「地球全体が、地球に住む一人ひとりにとっての祖国になり、そして大宇宙のすべてが地球に住む人間を愛撫するには、すべての次元空間を一点へと結集させることが不可欠。その一点を自分の祖国と名づけ、そこに自分で、あなたの愛の空間を創造する。大宇宙の最善のものがその愛の空間に触れるようになる、あなたの祖国である次元空間に。そしてその一点を通して、あなたは大宇宙を感じる。比類なき力を手にする。他の世界もそのことを察知する。神が、私たちの創造主が望んでいた通りに、すべてがあなたに仕えるようになる」

これを読んだ時はΨ5かとびっくりしたが、私の思う「ふるさと」は、アナスタシアの言う「一族の土地」や「祖国」のイメージだ。

その場所で、わたしは半田さんがライブで紹介した「アナザー・プレイス(アントニー・ゴーグリー)」のような、一人一人が霊的に個体化し、自ら立っている様子を見たい。顕在化した付帯質の内面の世界に立ち、ひとり祈る。ひとりなのに、ひとりではない。そんな場所に立ちたい。

ビギナー向けライブ#013 より