人形を撮る
先日のX(旧Twitter)の投稿。
わたしが抱かれるような。私ではなく。
— 松浦 由佳 (@noosmonozuki) 2025年3月8日
人形は柔らかく温かみを帯び大きくなる。
急にその人形の大きさが小さくなった。
その直後、最上さんと人形は共に崩れ落ちた。
離れてしまったんだと解釈した私がいた。
***
ユリシーズ「東京巡礼」に参加させていただきました。
ありがとうございます。 pic.twitter.com/0JTXMtNh3d
参加後、人形がとても気になり撮りたいという思いに駆られたが、撮影不可だろうと思い込んでしまったのと床に座って観覧していたせいか身体が冷えてしまい直ぐに帰宅することにした。
後日撮影可能であったと知り、改めて会場を訪れる機会も持つことができた。
パフォーマンスの日は荷物の軽さを考えズームレンズのみだったが、お気に入りの単焦点を2本持ち込むこともできたし、訪れていた人はひとりふたりほど。
撮影のためだけに再訪してよかったと今は思う。
今年になってから花を光と影だけで表現したいと時々モノクロ撮影に挑んでいる。
その流れでこちらでもモノクロと通常の撮影を使い分けた。
写真はjpegで撮影し現像はせずにそのままupしている。
シャッターを押した瞬間を大事にしたいから。
いつも花しか撮影していない私にとって、とても貴重な経験となった。
以下はそのときの写真のいくつかを撮った順にただ並べたものである。
ご覧いただけますと幸いです。











あっという間の1時間だった。撮影は私、わたしを知る時間だ。
花の撮影は撮れば撮るほど元気になっていく。4~5時間は平気。
なのに人形の撮影は1時間が限界だった。身体が重くなり強張ったまま帰路についた。
その差異の理由を今は言葉で説明できない。
ご覧いただき、ありがとうございます。
この場を借りて撮影のご縁をいただきました作者さま、主催者さま、同じ時と場所を共有したみなさまに感謝申し上げます。ありがとうございます。
こちらではコメント欄を設けておりません。なにかございましたらX(旧Twitter) @noosmonozuki までお願いいたします。
自我と日本語と知ること
OCOT「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。 意識進化とはそういうものです」
『2013:人類が神を見る日』のなかで一番好きな言葉。これが腑に落ちてヌーソロジーを学び始めたと言っても過言じゃない。
数年ぶりに紙の本を手に取ってパラパラとめくっていると、ふだん本に線を引かない私が唯一蛍光ペンでマークしている文章があった。一番好きだと思っている文章ではなかったことにも驚いた。
OCOT「あらゆる進化に意志が必要なように、あなたがたの意識進化にも当然人間の意志が必要となります。意識が無意識的に進化することができないように、また意志も無意志的に進化することはできません。」
「わたしを知り続けること」…高校生のころの経験からずっと私が興味を持っていること。これもわたしの意志だったのだと今は思う。
3年前、自我についてこう書いた。
絶対の不動の一点を見つけた今思うのは、この一点の代わりに、自我は何かを求め続けるのではないかということだ。
何か芯や核のようなものを得て存在の基盤としたい、不安に駆られたり、二極に揺れ動く心を安定させたいという欲求を持つのではないだろうか。 代わりになるものは人によって様々だと思う。「〜という私」「〜である私」の「〜」には色々なものがはいる。
だから、わかっているつもりになる。理解することそのもの、「私、わかってる」という状態が、空いている穴を埋める代替物になって、それを条件として安心を得ようとする。しかし、自我は代替物を得ても満たされることは決してないだろう。所詮は代替物だ。自己の位置の代わりにはならない。
「頭でわかっているつもり・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか①」
自我の中央には決して埋められない穴があるという感覚。
この穴は実のものでは埋められず、虚の点である不動点(無限遠点)つまりΨ5自己の位置を発見して初めて満足することができるという考えは変わっていない。
最近この感覚は日本語を母語としているから感じているのではないかと考えた。
OCOTは「日本語の精神は付帯質を前に持つ」という。日本語話者は〈モノ〉を前に見る、つまり人間の外面である感性空間を捉えやすいということになる。
物に心が宿ると考え、物を大切にし供養もする。これは日本語話者ならではだろう。
ならば肉体はどうなのか…というのが疑問が湧いた。
人間の肉体はOCOT情報では「重心」と呼ばれる。「重心」とは変換の中点という意味を持っており、ここでいう変換とは、付帯質の外面から内面への変換、普通に言えば、物の外部性から物の内部性への意識の変換という意味だ。つまり、肉体とは意識を物の外部(延長)から物の内部へと変換する蝶番となるような位置に構成されている組織で、この位置のことを「重心」と呼んでいるわけだ。(半田広宣さん2024年3月18日)
肉体は付帯質の外面と内面の蝶番の位置にあり、日本語話者は付帯質を前に持つのならば……
人間の内面である自我の位置にはないということなるのではないか?
その時ふと思い出したのが以前公園で見かけた、身長が2m近くありそうなスーツ姿の外国の男性3人が歩く様子だ。その3人が視界に入ってくる以前から何か確固たる意志あるものが近づいてくるという気配を感じた。スラっとした長い躯体をまっすぐに立て、堂々と歩いている。にこやかに談笑しながら(おそらく英語だろう)私の前を通り過ぎて行った。
他言語話者は付帯質を後ろに持つという。肉体の位置が自我の位置にあるとは、まさにこの光景のように堂々と肉体の軸で歩いている姿になるのではないか。
自我の中央に穴が空いているのではなく肉体という軸が立っている。
中空ではない!
おそらく他言語話者は自我を肉体の位置から認識する視座をもともと持ち合わせているのだと思う。
自我がどうのような内容で構成されているか、価値観、信念、思い込みなどを認識することが容易なのではないだろうか。肉体は人間の外面である身体とも当然繋がっているから、自分に合う合わないが明確になりやすく「私は〜である」を選びやすい。
思考によって人間の内面を突き詰めた哲学者や感性の鋭いアーティストが肉体感覚を越えて人間の外面、さらには持続空間に参入することができるのも自我を認識することが容易な他言語話者ならではの強みなのではないかと思う。
逆に肉体感覚を凌駕するような自我の肥大化のリスクも大きいのではないだろうか。たとえば教義に自我を明渡した場合や、トランスヒューマニズムなどは他言語おける他我化のわかりやすい事例だと考えている。
ところで「肉体は人間の外面である身体とも当然繋がっている」と書いたことについて少し付け加えたい。
私は肉体の感覚と身体の感覚に差異があると感じている。この感覚については最上和子さんのワークショップで教えていただいた稽古を続けてよりいっそう確証が深まった。
肉体感覚は皮膚を越えることはない。
身体感覚はどう表現したらいいのか…。皮膚感覚が空間隅々にまで広がっているにも関わらず距離がなくて全てを1点で感じられているような。皮膚感覚が空間に広がるようで空間を包んでいるような。もっと言ってしまえば空間が皮膚感覚になっているような……そんな感じだ。
表現力の乏しさを痛感するがいたしかたない。
さて話を戻す。
日本語話者は付帯質を前に持つゆえに肉体が自我の位置にはなく中空になっていると仮説を立てた。
他言語話者と比較して自我を認識する視座を持ちづらいし、肉体との結びつきが弱い。
さらに付帯質を前に持つことの特性として感性空間を感じやすいのだが、それにより自己と他者の場全体を捉えること、つまり「空気を読むこと」を可能にしている。
日本語話者の自我と肉体の結びつきが弱く、感性空間を捉えることが容易という特性は「日本語が元止揚を保守している(半田さん、2021年9月6日)」ということを意味しているそうだ。
しかしこれは諸刃の剣であるとも思う。自我を認識する視座をもたないまま表れた最悪の事象が第二次大戦の特攻や沖縄の集団自決だと思う。これは一部の上層部だけの問題では無く、それを後押しした当時の日本国民全体、日本語話者全体の問題だと私は考えている。肉体つまり身体性を大事にしていないから「お国のために」「一億玉砕」という大義を第一とした他我化にハマり、他者の尊厳や生きることを軽んじてきた結果だと思う。
最近では「自己責任」という言葉の使い方に同じ構造がみてとれる。身体性を大事にしていないから他者への共感もできなくなり独我論へ陥っていく。スピ系のなかにも同じような傾向があって少し驚いている。
では日本語話者は自我を認識する視座をどうやって持てばいいのか。
ひとつの答えが先日のヌースアットナイトでのイデアサイコロジー春井星乃さんの自我の確立のお話だろう。心の中で裁判を開き自己と他者のためになる選択を模索するという方法を提唱されていた。潜在化のψ11の位置を裁判官に喩えてψ9の検察官とψ10の被告とを調停し自我を確立するという。これはメタ認識によって自我を捉えていくという意味だと考えている。
いっぽう最上和子さんの身体論や古武術をはじめとした様々な身体技法も自我を認識する視座を持つ上で大事な要素だと思う。それでなくても肉体感覚が希薄なのだから、顕在化以降、身体空間の感覚を腑に落とすためには身体と向き合うことは避けて通れないと思っている。
運動など肉体を動かすこと、もっというと日常生活での肉体の動きを細かく意識し心地よさを感じていくことも同じように身体感覚へつながっていくと考えている。その際同時にカタチへの思考へと繋げていくことが大事だと思う。体を動かすことだけだと自我にのみ閉じてしまう恐れもあるのではないだろうか。
私は以前にも書いたように(リンク集「物語は続く」)私自身の経験から、能動的な思考を経て空間のカタチを構造化しΨ5の自己の位置を発見することは誰でも可能だと考えている。
冒頭のOCOTの言葉のとおり、思考によって認識、感覚、感情は変わっていくのだ。
この不動の一点である自己Ψ5と自我であるΨ6の差異を「認識し続ける」こと。
自我の「確立」と聞くと何かが出来上がるイメージがあるが、私はあくまでも身体性をもって自我を「知り続ける」ことを重視している。
人間の外面としての前を観続けることと人間の内面である自我を知り続けることの両輪が大事。
人間の外面と人間の内面を揺れ動きながらその割合が徐々に変わっていくことが身体を持って生きることだと思い、楽しんでいるこの頃だ。
追記
以前から「自我は天使から悪魔まで」という直観を持っている。
自我は他者の視線によってつくられるものであり、他者の影響による価値観や信念、思い込みなどから成り立っている。
ヌーソロジーの文脈では自己と自我を等化(交換可能)にしたあと、他者側を等化していくことになるのだが、これは他者の自我さえも等化することとおそらく同じだろう。他者は生者だけでなくもちろん死者も含まれる…となるともう無限だ。天使から悪魔まで全てという直観もあながち間違いではないかもしれないと今は考えている。
その全てから身体を通して現れてくるものが、自分の自我だと思っているものなのだろう。
(これはトウシンさんの8月オンライン講座の「全反射」の考え方をヒントにした。この講座おすすめだ。)
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知って感じて考えて行動する
備忘録としてUPします。
今年に入ってから、私は私以外に関心を持つようになりました。
政治や国際情勢、社会経済などSNS等で知る程度の内容ですが、それにさえも関心を向けてこなかったというのが恥ずかしながら今までの私です。
「知って感じて考えて行動する」
こんな基本的なことをやっと始めたのが今年なのです。
私の中ではこの「行動」が今までのそれと違います。抵抗が全くないとはいいきれないのですが、重力のまま落ちるように行動する。そんな上半期でした。
特にパレスチナ・ガザ地区の問題を知ったことはとても大きなことで、人間の尊厳、生きることに向き合わせてくれました。
ネット署名、直筆署名、ボイコット、関係機関へメールを送るなどできることをしてきました。
その一環で6月に居住市議会へ私個人で請願し、多くの方の協力を得て「パレスチナ・ガザ地区の即時恒久的停戦を目的とした積極的平和外交を国に求める意見書」を全会一致で可決していただくことができました。
しかしいまだに停戦は叶っていません。国内での関心も薄いと思います。
肉体を持って生きている以上、興味を持たない・知る努力をしないことは自己を知る機会を半分放棄していることと同じだと今は考えています。
ヌーソロジーの文脈を使い私なりの解釈で説明してみます。
今までの潜在化の状態のままでは同じことの繰り返しになります。
なのでまずは反転して人間の外面、自己の不動点を発見し、その感覚を身体に反映させる必要があります。
しかしこれは政治、経済、社会の問題を人間の内面のことだからと扱わない、関心を持たないことではないと考えています。これはある意味自己側だけで閉じてしまっている状態ではないでしょうか?
球精神Ψ7~8、思形Ψ9、感性Ψ10と歩みを進めて行った後、中性質Ψ11~12の次元、つまり他者側を等化していく流れに入ります。それまで自己側で顕在化してきたことを身体に反映させ、その空間を身体感覚として腑に落とすことができていれば、他者側に入った時に他者側の内容を身体で感じることになると思うのです。
もちろんこれは他者の空間ですから自己側の空間のそれとは違います。しかし少なくとも政治や経済、社会の問題を新たな視座で観ることになるでしょう。
それが今年になってから私が経験したことになるのではないかと捉えています。
ガザ地区の画像や動画に衝撃を受け感情も揺さぶられます。と同時にその揺さぶられている私を観ている自己も存在し、だからこそ「では、私はどうするか」という選択を思考することができるのでしょう。
その時の思考は先ほど書いた「重力のまま落ちるような」行動となり、物事はスムーズに展開していくのだと思います。
以下、市議会委員会で陳述したものを載せて記事を終えます。
昨年10月7日のハマスによるイスラエルへの攻撃及び人質事件を皮切りに、イスラエル軍の報復が8ヶ月以上経った現在も継続しています。
パレスチナ・ガザ地区の一般市民、子どもたちへ甚大な被害が生じている凄惨な状況で、深刻な人道危機に直面しています。
ガザ地区の保健当局によると、6月10日までにガザ地区で3万7124人が死亡し、
2万5000人以上が地区外での治療を必要としながら、イスラエルがラファ検問所を掌握したことで搬送ができなくなり、数千人が症状の悪化や命の危険にさらされています。ジュネーブに本部がある人権団体「欧州・地中海・人権モニター」によると、
5月までに1万5千人以上の子供たちが亡くなっています。検問所の封鎖によって食料や乳児用の粉ミルクなども満足に搬入されず、避難民は深刻な飢餓に陥っています。
6月5日、国連はガザ地区で人口の半分にあたる100万人以上が来月中旬までに「死か飢餓に直面する」ことが予想されると警告しました。イスラエルは度々病院を攻撃しています。
また自らが安全地帯と指定していた地区の難民キャンプを空爆、
避難所になっていた国連運営の学校でさえも空爆しています。
6月7日、国連はイスラエルを子供の人権を侵害する国として指定する
との声明を出しました。またイスラエルは去年10月以降、ガザ地区で4千人以上、ヨルダン川西岸では9千人以上のパレスチナ人を拘束し、性的暴行、拷問を行っているという国連の報告書も公表されています。
「われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
私は、この日本国憲法の前文が大好きです。
他国のことですが、人権・個人の尊厳が踏み躙られている状況を、同じ人間として黙って見過ごすことはできないと思いました。
また私自身が人権、個人の尊厳に対して、どう行動するのかが問われている。
そう考え、私個人でもできること、署名や意見を送るなどをしてきました。
そのなかで請願という制度を知り、今この場に立っています。
〇〇市民に選ばれた議員のみなさまに、このパレスチナ・ガザ地区の問題について向き合っていただき、
市民の声として、人権・個人の尊厳に対する態度を表明し、国に届けていただきたいのです。6月10日、国連安保理は恒久的停戦に向けた3段階の工程表に基づく停戦案を
採択しました。
日本が賛成に票を投じたことに、たいへん安堵しています。
恒久的停戦が実現するその時まで、積極的な外交が必要だという思いを新たにしました。一刻も早いガザ地区の恒久的停戦を実現するため、〇〇市議会から国へ積極的平和外交を求めることを強く要望いたします。
ありがとうございました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
この場を借りて請願に協力してくださった議員の方々、ガザ地区の問題を発信してくださっている方々、そして私に他者への眼差しを教えてくださった方に心からの感謝を申し上げます。
「劇場空間で原初舞踏を体験」してきた!
6月29日(土)最上和子さんのワークショップ(WS)への参加してきた。
1年ぶり2回目の参加になる。

スタッフの方が案内してくださった会場までの経路が面白かった。てっきり客席から舞台に上がると思っていたが、裏の通用口から案内されて舞台袖から舞台へ入っていく。非日常空間への参入が細やかに演出されていた。
300人ほどの大きさの劇場の舞台がその会場。客席には誰もいない。
20人のWS参加者以外に見学者もいて40人近くの集いとなった。

オーム斉唱、「さわる」と「ふれる」の違いを体感したあとは毎回行われる床稽古。
崩れ落ちて出会う床は家の床とも前回の古民家の床とも違う、少し硬派な感じだった。前回の古民家の床に最初に出会った時(前回のWSは月1回3ヶ月連続だった)と同じようにふと「」という言葉が頭をよぎる。なぜなのかよくわからないのだけど身をまかせる床との出会いはそんな感じなのだ。
ゆっくりと仰向けに横たわった時にはスポットライトの光が連なる高いはずの天井ももう目の前だ。しばらくして合図があり、そこから立ち上がるために体を少しずつ動かそうとするが…重い。「最低限の筋力で」「支点を使わずヨイショとしないで」となると、どうやって動くんだと毎回思ってしまう。
終了間際、映画「ピアノレッスン」のテーマ曲が流れてきた。もがいているところにちょうど流れてくるこのメロディに背中を押され「自分の足で立つぞ」と決意してやっとの思いで立ち上がる。おもわず「つかれた…」と声が出てた。立ちがるまで20分。終わった時の気持ちよさが病みつきになる。
歩きの稽古は前回とは違ったものになっていた。歩きを垂直化し一つ一つの動きに意味を持たせる。
息を吸いながら足をあげ、意識は開いて天に向く。
その足を息を吐きながら下ろしつつ、意識は閉じ大地へ根を下ろすように潜らせる。
下ろした足を垂直軸として立ち「われここにあり」と意識する。
後ろは無意識の大海原。前の地平線を目指して一歩一歩ていねいにゆっくり歩いていく。
「われここにあり」という存立宣言は、共同体や土地が失われたなかで生きている現代人にとって大事なものとおっしゃっていた。この「われ」はインナーチャイルドのことをさしているのだそう。
昨日のWSでは、この「われここにあり」の「われ」はヌーソロジーでいうところの顕在化したΨ5の位置だと歩きながら感じていたが、これは私が感じられる限界であって、最上さんは違うところを捉えられていらっしゃるのではないかと今朝復習しながら考えた。
またインナーチャイルドという言葉から天海ヒロさんがアニマンダラでおっしゃっているウニヒピリを連想した。ウニヒピリ(顕在化したΨ10)がウハネ(顕在化したΨ9)と統合した状態、〈モノ〉の世界から往って還ってきた自己の統合した状態を「われ」と表していらっしゃるのではないかと思う。
そこまで身体で感じられるようになるか、腑に落とせるようになるかどうかは今後の課題だ。
今回参加して1年前と大きく私の中で違ったのは、他者の視線が気にならなくなったこと。広い空間とはいえ前回より大幅に多い30人もの視線に耐えられるか正直不安だったが、集中して楽しめたことがとても嬉しかった。
あとWSで忘れてならないのが観ること。観ることは空間を作ることに参入するという意味なのだが、ただそれぞれの動きを観ているだけでも面白い。それぞれの顕れに感じ入る。この時間もWSならではで大好きだ。
WSは説明が大変だと最上さんはおっしゃっていたので、説明する必要のない、いつもお弟子さんと行っているお稽古をそのまま観てみたいという欲が生まれた。
200人くらいですり鉢状に舞台を取り囲み、その中心で身体を研ぎ澄まされている方々の稽古を観るという贅沢な空間を体験してみたい。『身体のリアル』を必読本にして。身勝手な希望だが妄想するのはいいだろう(笑)
今回も5時間に及ぶ貴重な体験をすることができた。体験とひとくちにいっても「身体」「身体空間」に焦点をあてている経験は通常使われている体験という言葉とはその質が全く違うと考えている。
貴重な体験の空間、場を作ってくださった最上和子さん、ユリシーズのスタッフの皆さま、集ってくださった皆さまに感謝申し上げます。
ありがとうございます。

ブログ名を変更します。
ブログを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。
ブログのタイトル『ヌーソロジーを学んでいます』を変更します。
そう決めたきっかけは、率直に言ってしまえばサロンメルマガ『スピナーズ』1月分第49号になります。
きっかけはメルマガですが、この半年ほど私の中に思うところが育っていった結果だと思います。
ヌーソロジーは学び続けますが、標榜するのはやめようと決意しました。
これからは、ヌーソロジーを学び始める前から知りたいと思い続けている「わたし」について自由に書いていこうと思います。もちろんヌーソロジーの観点から書いていくことにはなると思います。「意識の違いは空間の違いである」という私の経験に最も近いものがヌーソロジーですから。
今まで通り、時折思い出したかのような、いい加減な更新にはなります。
『わたしを知るもの好きがたり』をどうぞよろしくお願い致します。
2024年立春 松浦 由佳
追記
ここまでは昨日2月4日にupした文章です。
いつもならばブログ更新のことはX(旧Twitter)で告知するのに今回はしませんでした。
これは私の弱さです。本当のことをしっかりと話すことが怖かったから。
私が何もわかっていないことを晒すような気がして怖かったからです。
でもそれもやめようと思い、追記することにしました。
メルマガを読んでタイトルを変えようと思った理由は二点あります。
サロンという閉ざされた場での発言なので、この公開の場で内容を引用するのは間違っている行為だという認識はあります。しかしあえて引用します。もちろん半田広宣さんご本人に確認はとっておりません。抗議があればもちろん削除します。
ただヌーソロジーが今後、人間の認識を変えていくという大きな責務を担っているのなら避けて通れないことのように感じています。私は人間の「認識を変えていく」ことが最も大切だというOCOTの発言に心から同意しているので、ヌーソロジーの可能性を信じています。しかし今回のメルマガをきっかけに「ヌーソロジーを学んでいる」ということを標榜する自信がなくなった、恥ずかしいという思いが湧いてきてしまったというのも事実です。
一つは松本人志氏についての以下の記述です。
結論から言えば、報道されているニュースが事実であるのなら、彼の行為は著名人として、あまりに自覚を欠いた行いであり、当然、TVをホームグラウンドとして富と名声を得たからには、同じメディアによって裁かれるというのも当然の報いだとは思う。ただ、彼自身の初期対応のミスも手伝って、騒ぎは拡大していくばかりで、この間、文春の方は二弾、三弾、四弾と執拗に暴露記事を畳み掛け、Youtubeでは再生数稼ぎ目的の連中がこぞって似通った動画を垂れ流し、気がつけば、トップ芸人の松本人志はひと月も経たないうちに極悪非道の人非人のようなイメージに変えられてしまった。こういう言い方をすると、女性の皆さんからは大変、顰蹙を買うかもしれないが、別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない。一芸能人のスキャンダルにここまで世間がヒートアップする必要もなかろうにと僕なんかは思ってしまうのだが。他人事ながら、ここまでくるとさすがに気の毒だ。
事実は裁判でも明らかになっていないので松本氏の事件のことについては何も言えません。
でも私が気になったのは「別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない」という一文です。これが性加害についての半田さんの見解かと思うと大変なショックを覚えました。このメルマガについてのXのポストにも「某芸人の性加害事件の話についての感想」とありました。なのでこれが半田さんの性加害についての見解であると認識しました。
確かに刑罰の量刑から言えば性加害は殺人よりも軽いです。
しかし私は性加害はその人の魂に対する加害だと思っているので、その罪の重さは殺人とさして変わらないと考えています。
もう一つは「社会のホワイト化」についての記述です。長くなりますが引用します。
昔、ドゥルーズが、地球の裏側で起きたことを、まるで自分の足もとで起こったことのように感じることのできる感性のことをさして、「左翼的なもの」と言っていたが、今は、この感性がまるまる悪い方向へと転倒し、「遠く起きている事を自分事として感じ取り、近く起きていることを他人事と感じ取る者たち」で溢れかえっている。まさにヌーソロジーでいうところの他我化そのものだ。自分の現実に目を向けたくない人間ほど、見ず知らずの他人のことに口を出したがるものだが、その原因は、本人が外的自己(他人から見た自分)に囚われてすぎているところにある。他人から見た自分と、自分から見た自分は全く違うものなのだから、外部の評価に悩まされる必要など、もともとないのだ。他人の言葉に振り回されて、一度、自己否定なんてしてしまおうものなら、それこそ、スマル一直線、クズ化する。
で、最近、この傾向にますます拍車をかけそうな言葉を耳にした。「社会のホワイト化」というやつである。言い出しっぺはかの岡田斗司夫氏なのだが、彼によれば、最近は社会がどんどんホワイト化して行っているのだと言う。「社会のホワイト化」とは、「美しいものは正しい」ということを絶対の価値基準とする風潮のことを言う。ホワイト化した社会では、見た目が美しければ、それは正しいものとされ、逆に、汚なければ、それは正しくないという烙印を押される。極端な話、見た目が悪い人間は中途半端な人間であり、最近では、不潔なものや気持ち悪いものを許さない社会になってきているというのだ。もちろん、これはパブリックでの話であって、プライベートの話ではない。パブリックとプライベートはきれいに二分されている。つまり、パブリックであればあるほどキレイであることは当たり前で、キレイでないものは社会から排除されていく。そういう話だ。僕には、まるで、現実の社会自体がメタバース化して行ってるかのような話に聞こえるのだが。。ということは、これから先の時代はどこもキラキラで、キレイが正義の、見た目至上主義の社会になるということなのだろうか。目に見える部分、うわべの表面だけが私たちの価値判断の基準となる社会。これは、ヌースでいうなら、最終構成による、人間社会に対する当然の要請と言えるのかもしれない。というのも、現代人にとって最もダーティーなもの、忌み嫌われるものは「死」に他ならないからだ。つまり、汚いものを見たくないとする欲求は、無意識による死の隠蔽につながっているということだ。
自分はそんなにキレイである必要もないと思っているのに、社会にキレイさを強要され、自分もその価値観を受け入れ、それに無条件に追従していくなら、自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく——普通の言い方で言えば、外の外の方向へと意識の位置が落ちて行っているも同然だろう。これは、徹底して世界から自己なるもの(人間の外面)を排除しようとする無意識の流れのようにも見えるのだが、皆さんはどう考えるだろうか?
今までも、私たちは人間の内面に生み出された外的自己の姿をもって同一性の世界の中へと投げ込まれ、その中で、差異としての学歴や収入、社会的地位やルックスなどで人の優劣を判断し、そこで差別意識も生まれていた。しかし、そこにはまだかろうじて、人間性や人格といった内的自己に価値を見ようとする方向性も残っていた。社会のホワイト化はそれさえも切断しにかかっているというのは言い過ぎだろうか。人間の価値観を完全に人間の内面の中に封じ込め、もし、外面的なものとの完全な切断を図ることがホワイト化の正体であれば、社会のホワイト化とは、ブラックホールの中への落下以外の何ものでもない。
ここに書いてあることに何の異論もありません。他我化についても「社会のホワイト化」についても全くその通りだと思います。
ではなぜ問題視したのかというと、この「社会のホワイト化」の本質「自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく」ことに、生成AI画像と同じ本質があると考えるからです。
以前にも書いたように、生成AI画像の生成に使われるビッグデータは多数の数値化された情報です。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうことになります。
生成AI画像の描写力、線の美しさ、発想力は人間が描く絵を超えていると思います。
しかしこれはうわべの表面だけの美しさであり、そこに人間の持つ持続は全く含まれていません。美しさだけで生成AI画像を礼賛する姿勢に疑問を持ちます。
さらに生成AI画像が見る者にどのような影響を与えるのか、実際にはまだよく分からないものだと思います。
私自身は生成AI画像を出力した経験は僅かしかありませんが、プロンプトを入力し出力した本人が生成AI画像を見る場合と、そうではない人が同じ生成AI画像を見る場合ではその影響が全く違うと予想しています。
最終構成の対化として現れている生成AI画像。この扱いについては慎重になって然るべきだと思います。他者に自分の出力した画像を見せることの意味を考える必要があるのではないでしょうか。
「社会のホワイト化」も最終構成の現れです。ならば同じこととして生成AI画像についても考えて欲しかったというのが率直な気持ちです。
長くなりました。ここまで読んでいただきありがとうございます。
何かございましたら、Xまで返信をお願い致します。
2024年2月5日 松浦 由佳
AI生成画像とヌーソロジーと私
先日、AI生成画像について以下を書き込んだ。
気持ち悪いというのも確かにそうですが、身体が受け付けない、拒否するという言葉がぴったりかもしれません。 https://t.co/e2ND9ZcTW1
— 松浦 由佳 (@noosmonozuki) 2023年10月29日
今も時々目に入ってくるが、その際に感じる「何もない感じ」という感覚は今も変わらない。
今回は、AI生成画像は芸術となりうるのか、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかという2点について私なりの考えを書きたい。
私にとって芸術とは心を動かし感動を与えてくれるもの。芸術には他者に何らかの影響を与える力があり、その力は制作者の持続よるものだと考えている。制作者の持続に触れるからこそ、何かしら心が動くのだ。
AI生成画像は芸術か。芸術の定義を制作者の持続の含むものとするならば否だと思う。
芸術の範囲はどこまでかを考えた際、長年アニメを愛好している者としてフルCG画像との比較が適しているのではないかと考えた。
先日も述べたが、手描きセルのアニメからすると、フルCGアニメの強度は低く、薄っぺらい印象を抱いてしまう。しかし、AI生成画像を見るときに感じる「何もない感じ」ではない。何かしら僅かにでも制作者の持続があると私なりに感じている。
なので両者の出力過程の違いが「僅かながらの持続が残る場合」と「何もない感じ」という差異を生み出しているのではないかと思った。
CG画像を作るために、例えばBlenderなどのアプリに入力する。入力する内容は、入力者のそれまでの経験(持続)が反映され、それがそのままプログラム処理されて出力される。例えば形、色、位置、動き…etc。入力者が判断し決めることは意外とある。
一方のAI生成画像を出力した経験はないが、調べたところ呪文と呼ばれるプロンプトを入力するとのこと。プロントそのものには、確かにプロンプト入力者の経験(持続)が反映されるだろう。なのになぜ出力された画像にプロンプト入力者の持続が感じられないのか。
それはAIが処理するディープラーングの過程でビッグデータが使用されていることによって、入力者の持続が無効化されてしまうからではないだろうか。ビッグデータは多数の数値化された情報でしかない。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうのだと思う。
なのでAI生成画像には制作者の持続は含まれていないと結論づける。
中身の伴わない表象。それがいまのところの私の見解である。
では次に、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかについて。
これも私は役立たないと考えている。むしろ必要のないものだと思う。
そもそもヌーソロジーは思考による認識の変化を最も大切にしている。
ヌーソロジーのモットーとしているOCOTの言葉がある。それがコレ。
— 半田広宣 (@kohsen) 2021年1月14日
「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。 意識進化とはそういうものです」
半田さんがOCOT情報から彫塑したケイブコンパス、NC、ヘキサチューブル。
ヌーソロジーを理解するために必要なツールは、これで十分だと思う。
この3つは地図であると同時に顕在化への変換装置となっている。
なぜなら、これらを通して能動的にカタチを思考し、認識を変化させ、自らの持続空間を立ち上げる、いや発見することができるから。
私は、ヌーソロジーのいう能動的思考は、ベクトルのように方向性とエネルギーを持つと思っている。(これはアニマンダラさんの講座を受けて考えたことだが、自我の問題と絡めて、別にまた書きたい。)
方向性が大事だというのは、ヌーソロジーの人間の外面、人間の内面という概念の理解につながっている。エネルギーは人間の外面においては持続に相当する。
AI生成画像には持続はない。あるのは表象のみ。それも他者がイメージしたものである。
持続を伴わないAI生成画像を見て、その他者の表象に引っ張られ、本来の顕在化の方向とは真逆の方向に行ってしまうのではないかと強く懸念している。
能動的思考により認識を変化させ自らの持続空間を目の前に発見し、そこで自らがイメージすること、身体を通して実感することのほうがずっと大切だと思う。
これに尽きるのではないだろうか。
追記
上記を書き上げた2日後、生成AIのAdobe Firefly無料版で小一時間遊んでみた。
プロンプトは、私自身があらかじめイメージしているものから言葉を選び、具象、抽象どちらの画も出力させたが、どれも「何もない感じ」がした。
自ら出力させて気付いたことは、Blenderで感じたときのめまいのようなものとは違う、行ったり来たりする鏡合わせのような揺れを感じたこと。
半日経った今も脳の真ん中やや後ろあたりで重いような違和感を感じている。
出力された画を見て、自分の思い描いていたイメージとの一致やギャップから考えること、その画を見て感じること。それら一連の作業が精神の方向性を見出すための負荷となるという考え方もあるとは思う。なんでも経験と割り切って一度試してみるのもありだろう。
ただ、自分がイメージし、プロンプトを入力した画と、他者が出力した画には大きな差異、真逆の方向性があることは心に留めておいた方がいいと思う。

身体とNCと2軸
(以下に書く内容は、あくまでも私の直観、身体感覚に頼った仮説です。 ヌーソロジーをもとに考えてはいますが、勝手に解釈したものです。 この投稿も【もの好き勝手解釈】というカテゴリーを設けて分類しました。)
4〜6月に行われた最上和子さんの計3回のワークショップに参加した。
以来、少なくとも2日に1回は教えて頂いた稽古を行なっている。
私が教えて頂いた稽古は床稽古、スロー、歩く稽古の3つ。毎回そのうちのひとつを行なっている。
概要を簡単に説明すると、床稽古は5分かけて床に仰向けになり、そのまま10分身体の力を抜きながら横たわっている。その後10〜20分かけて立ち上がる。
スローは、胡座をかいて座り、目の前に置かれたお湯飲みには視線を合わせず、お湯飲みを両手で取り、水を飲んで、床にまたお湯飲みを置くところまでを10分かけて行う。
歩く稽古は、3メートルほどの距離を10分かけて歩く。
動きを細かく細かくし、身体の様子を微細に感じていく。動きは止めない。
動きを微分していくことで〈モノ〉の中に入ること、〈モノ〉そのものであることを身体を通して実感するための試みだと思っている。
先日、半田広宣さんのX(Twitter)にこんなやりとりがあった。
UFOさん @dWpUByKQW7AIgM4
日本人の古来の歩き方は右手右足が同時に出るナンバ歩きだったそうですが、現代よりヌース的だったのではないでしょうか? 的外れかもですが
半田広宣さん @kohsen
まだよく分かりませんが、その可能性はあります。内と外の意識の捩れが癒着して見えなくなる以前の意識がそのように身体を整序していた可能性があります。体軸が一本ではなく二本あったとでもいうのか。。
川瀬統心さん @AwakesToushin
「体軸二本」は、例のアマントジュンさんの縄文身体論ですね。そしてジュンさんによるとさらに重要なのが、二軸になることで中心軸が空洞になる事の様でした。
まだよく分かりませんが、その可能性はあります。内と外の意識の捩れが癒着して見えなくなる以前の意識がそのように身体を整序していた可能性があります。体軸が一本ではなく二本あったとでもいうのか。。 https://t.co/p8Gz2CZpym
— 半田広宣 (@kohsen) 2023年9月6日
これを読んでとても気になり、天人純さんのインタビュー記事を読んだ。
天人さんは日本の古い動き方を研究しているうちに、環太平洋火山帯の地域の人々が同じ身体の動かし方をしていることに気が付かれたそうだ。
身体の中心の軸がなく、2本の軸で身体を動かしていくというもので、現在でも武道での刀の抜刀や振り方、弓道の動きにみられるとのこと。
私は歩き稽古をしてる際、どうしても片足になる瞬間にグラグラと身体の軸がブレることが気になっていた。背骨を意識しながら、もちろん、ヌーソロジーのいう無限遠点も意識しながら歩いていたが違和感をずっと感じていた。
そんな時に天人さんの2軸の考え方を知り、さっそく試してみた。
30分かけて往復で6メートルほどの距離を歩いた。
2軸を意識し、さらにナンバ歩きのように下半身と上半身の動きを捻じらず同じ側で歩くつもりで動いてみた。
グラグラすることが減り安定した。片方の踵が床から離れ、着地させ、体重を移動させながらわずかに意識も左右に移動させる。真ん中は中空だ。
最初は2軸というより筒のようにも感じた。でも筒でもない。
途中、片方の軸に身体をのせるイメージにしてみた。体重移動のたびに2本ある体軸の1本にのせる感じ。
するとまたグラグラして安定感が無くなった。2軸が2本になってはダメだということが分かった。
わざわざ2軸と2本という書きわけをしたのは、このとき虚と実の違いを感じたからだ。
これがNCとの関連を思いつくきっかけになった。
次の日、また同じように30分の歩き稽古をした。
2軸は虚であり、中心は中空。これを感じながら歩いているときにNC、ヌースコンストラクションの図が浮かんできた。
(図は半田広宣さんのTwitterからお借りしました。)
このNCを、身体を真上から見たときに見える図として当てはめてみた。
身体の背骨の中心をヌーソロジーでいう重心(図では±0の位置)にする。
左右2軸を垂質の−無限遠点(他者側)と+無限遠点(自己側)とした。
垂質ではなく、上次元の構造が球精神に畳み込まれた状態と考えた方がいいと今では思っている。
球精神の直径の自己側の点、他者側の点を天人さんのいう2軸としてみた。
重心も球精神の直径の2点(無限遠点)も虚の点だ。
身体の真上からみると、身長分の長さがあるように感じるが、これも虚軸。実軸ではない。
もちろん球精神の直径も虚軸なので、例えば背骨の左右5センチのように左右の軸に距離があるわけでもない。肉体とは違う。身体空間はあくまでも持続空間であり実数では捉えられない虚の空間だ。
この直観にもとづき歩いた時、今まででいちばん力を必要としない歩き方になった。とても安定していて、ブレることはなく、更に細かく足を運ぶさまを感じとることができた。
身体の左右に他者と自己の位置がある。
おそらく下半身、上半身が他者側*の自己他者だろう。ここで捩れがおこっている。
身体に四値があるという仮説だ。
そしてこれも仮説にすぎないが、天人さんのいう2軸は日本語の精神が感じとらせてくれているのではないだろうか。環太平洋地域と大きく広げるとそのあたりの言語がわからないのでなんとも言えないが、少なくとも「日本語は付帯質を前に持つ」というOCOTの言葉から、日本語を母語としている日本人が持続空間としての身体へ直結しやすいのは日本語の精神によるところなのだろうと思う。
最後になぜ私が身体、身体空間に注目するのか。
ひとつは直観を得るため。もうひとつはヌーソロジーのいう構造、カタチの答え合わせをして腑に落とすため。
最上さんに教わった稽古で味わう感覚は、どんな動きにも適用できるものだろうと今は考えている。日常動作、スポーツ、西洋の舞踏であるバレエなどにも。
それが日本語話者ならではの強みだとも思っている。
日常動作、日常生活が座ることと同じになるような動きをしたいというのが壮大な目標だ。
いったんこのままupしてみるが、サロンの質問箱で半田さんに質問してみようと思う。
実はこの投稿は、質問するための説明の目的で書いた側面もある。
Twitterの文字数を気にしながらだと書きづらいと思ったから。
頂いた回答は半田さんの許可を得られたならば、またブログにupしたい。