先日、AI生成画像について以下を書き込んだ。
気持ち悪いというのも確かにそうですが、身体が受け付けない、拒否するという言葉がぴったりかもしれません。 https://t.co/e2ND9ZcTW1
— 松浦 由佳 (@noosmonozuki) 2023年10月29日
今も時々目に入ってくるが、その際に感じる「何もない感じ」という感覚は今も変わらない。
今回は、AI生成画像は芸術となりうるのか、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかという2点について私なりの考えを書きたい。
私にとって芸術とは心を動かし感動を与えてくれるもの。芸術には他者に何らかの影響を与える力があり、その力は制作者の持続よるものだと考えている。制作者の持続に触れるからこそ、何かしら心が動くのだ。
AI生成画像は芸術か。芸術の定義を制作者の持続の含むものとするならば否だと思う。
芸術の範囲はどこまでかを考えた際、長年アニメを愛好している者としてフルCG画像との比較が適しているのではないかと考えた。
先日も述べたが、手描きセルのアニメからすると、フルCGアニメの強度は低く、薄っぺらい印象を抱いてしまう。しかし、AI生成画像を見るときに感じる「何もない感じ」ではない。何かしら僅かにでも制作者の持続があると私なりに感じている。
なので両者の出力過程の違いが「僅かながらの持続が残る場合」と「何もない感じ」という差異を生み出しているのではないかと思った。
CG画像を作るために、例えばBlenderなどのアプリに入力する。入力する内容は、入力者のそれまでの経験(持続)が反映され、それがそのままプログラム処理されて出力される。例えば形、色、位置、動き…etc。入力者が判断し決めることは意外とある。
一方のAI生成画像を出力した経験はないが、調べたところ呪文と呼ばれるプロンプトを入力するとのこと。プロントそのものには、確かにプロンプト入力者の経験(持続)が反映されるだろう。なのになぜ出力された画像にプロンプト入力者の持続が感じられないのか。
それはAIが処理するディープラーングの過程でビッグデータが使用されていることによって、入力者の持続が無効化されてしまうからではないだろうか。ビッグデータは多数の数値化された情報でしかない。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうのだと思う。
なのでAI生成画像には制作者の持続は含まれていないと結論づける。
中身の伴わない表象。それがいまのところの私の見解である。
では次に、AI生成画像はヌーソロジーの理解に役立つのかについて。
これも私は役立たないと考えている。むしろ必要のないものだと思う。
そもそもヌーソロジーは思考による認識の変化を最も大切にしている。
ヌーソロジーのモットーとしているOCOTの言葉がある。それがコレ。
— 半田広宣 (@kohsen) 2021年1月14日
「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。 意識進化とはそういうものです」
半田さんがOCOT情報から彫塑したケイブコンパス、NC、ヘキサチューブル。
ヌーソロジーを理解するために必要なツールは、これで十分だと思う。
この3つは地図であると同時に顕在化への変換装置となっている。
なぜなら、これらを通して能動的にカタチを思考し、認識を変化させ、自らの持続空間を立ち上げる、いや発見することができるから。
私は、ヌーソロジーのいう能動的思考は、ベクトルのように方向性とエネルギーを持つと思っている。(これはアニマンダラさんの講座を受けて考えたことだが、自我の問題と絡めて、別にまた書きたい。)
方向性が大事だというのは、ヌーソロジーの人間の外面、人間の内面という概念の理解につながっている。エネルギーは人間の外面においては持続に相当する。
AI生成画像には持続はない。あるのは表象のみ。それも他者がイメージしたものである。
持続を伴わないAI生成画像を見て、その他者の表象に引っ張られ、本来の顕在化の方向とは真逆の方向に行ってしまうのではないかと強く懸念している。
能動的思考により認識を変化させ自らの持続空間を目の前に発見し、そこで自らがイメージすること、身体を通して実感することのほうがずっと大切だと思う。
これに尽きるのではないだろうか。
追記
上記を書き上げた2日後、生成AIのAdobe Firefly無料版で小一時間遊んでみた。
プロンプトは、私自身があらかじめイメージしているものから言葉を選び、具象、抽象どちらの画も出力させたが、どれも「何もない感じ」がした。
自ら出力させて気付いたことは、Blenderで感じたときのめまいのようなものとは違う、行ったり来たりする鏡合わせのような揺れを感じたこと。
半日経った今も脳の真ん中やや後ろあたりで重いような違和感を感じている。
出力された画を見て、自分の思い描いていたイメージとの一致やギャップから考えること、その画を見て感じること。それら一連の作業が精神の方向性を見出すための負荷となるという考え方もあるとは思う。なんでも経験と割り切って一度試してみるのもありだろう。
ただ、自分がイメージし、プロンプトを入力した画と、他者が出力した画には大きな差異、真逆の方向性があることは心に留めておいた方がいいと思う。