わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

身体とNCと2軸

(以下に書く内容は、あくまでも私の直観、身体感覚に頼った仮説です。 ヌーソロジーをもとに考えてはいますが、勝手に解釈したものです。 この投稿も【もの好き勝手解釈】というカテゴリーを設けて分類しました。)

 

4〜6月に行われた最上和子さんの計3回のワークショップに参加した。
以来、少なくとも2日に1回は教えて頂いた稽古を行なっている。
私が教えて頂いた稽古は床稽古、スロー、歩く稽古の3つ。毎回そのうちのひとつを行なっている。

概要を簡単に説明すると、床稽古は5分かけて床に仰向けになり、そのまま10分身体の力を抜きながら横たわっている。その後10〜20分かけて立ち上がる。
スローは、胡座をかいて座り、目の前に置かれたお湯飲みには視線を合わせず、お湯飲みを両手で取り、水を飲んで、床にまたお湯飲みを置くところまでを10分かけて行う。
歩く稽古は、3メートルほどの距離を10分かけて歩く。

動きを細かく細かくし、身体の様子を微細に感じていく。動きは止めない。
動きを微分していくことで〈モノ〉の中に入ること、〈モノ〉そのものであることを身体を通して実感するための試みだと思っている。

先日、半田広宣さんのX(Twitter)にこんなやりとりがあった。

UFOさん @dWpUByKQW7AIgM4
日本人の古来の歩き方は右手右足が同時に出るナンバ歩きだったそうですが、現代よりヌース的だったのではないでしょうか? 的外れかもですが
半田広宣さん @kohsen
まだよく分かりませんが、その可能性はあります。内と外の意識の捩れが癒着して見えなくなる以前の意識がそのように身体を整序していた可能性があります。体軸が一本ではなく二本あったとでもいうのか。。
川瀬統心さん @AwakesToushin
「体軸二本」は、例のアマントジュンさんの縄文身体論ですね。そしてジュンさんによるとさらに重要なのが、二軸になることで中心軸が空洞になる事の様でした。

これを読んでとても気になり、天人純さんのインタビュー記事を読んだ。

天人さんは日本の古い動き方を研究しているうちに、環太平洋火山帯の地域の人々が同じ身体の動かし方をしていることに気が付かれたそうだ。
身体の中心の軸がなく、2本の軸で身体を動かしていくというもので、現在でも武道での刀の抜刀や振り方、弓道の動きにみられるとのこと。

私は歩き稽古をしてる際、どうしても片足になる瞬間にグラグラと身体の軸がブレることが気になっていた。背骨を意識しながら、もちろん、ヌーソロジーのいう無限遠点も意識しながら歩いていたが違和感をずっと感じていた。
そんな時に天人さんの2軸の考え方を知り、さっそく試してみた。
30分かけて往復で6メートルほどの距離を歩いた。
2軸を意識し、さらにナンバ歩きのように下半身と上半身の動きを捻じらず同じ側で歩くつもりで動いてみた。
グラグラすることが減り安定した。片方の踵が床から離れ、着地させ、体重を移動させながらわずかに意識も左右に移動させる。真ん中は中空だ。

最初は2軸というより筒のようにも感じた。でも筒でもない。
途中、片方の軸に身体をのせるイメージにしてみた。体重移動のたびに2本ある体軸の1本にのせる感じ。
するとまたグラグラして安定感が無くなった。2軸が2本になってはダメだということが分かった。
わざわざ2軸と2本という書きわけをしたのは、このとき虚と実の違いを感じたからだ。
これがNCとの関連を思いつくきっかけになった。

次の日、また同じように30分の歩き稽古をした。
2軸は虚であり、中心は中空。これを感じながら歩いているときにNC、ヌースコンストラクションの図が浮かんできた。

画像

(図は半田広宣さんのTwitterからお借りしました。)

このNCを、身体を真上から見たときに見える図として当てはめてみた。
身体の背骨の中心をヌーソロジーでいう重心(図では±0の位置)にする。
左右2軸を垂質の−無限遠点(他者側)と+無限遠点(自己側)とした。

垂質ではなく、上次元の構造が球精神に畳み込まれた状態と考えた方がいいと今では思っている。
球精神の直径の自己側の点、他者側の点を天人さんのいう2軸としてみた。
重心も球精神の直径の2点(無限遠点)も虚の点だ。
身体の真上からみると、身長分の長さがあるように感じるが、これも虚軸。実軸ではない。
もちろん球精神の直径も虚軸なので、例えば背骨の左右5センチのように左右の軸に距離があるわけでもない。肉体とは違う。身体空間はあくまでも持続空間であり実数では捉えられない虚の空間だ。

この直観にもとづき歩いた時、今まででいちばん力を必要としない歩き方になった。とても安定していて、ブレることはなく、更に細かく足を運ぶさまを感じとることができた。

身体の左右に他者と自己の位置がある。
おそらく下半身、上半身が他者側*の自己他者だろう。ここで捩れがおこっている。
身体に四値があるという仮説だ。
そしてこれも仮説にすぎないが、天人さんのいう2軸は日本語の精神が感じとらせてくれているのではないだろうか。環太平洋地域と大きく広げるとそのあたりの言語がわからないのでなんとも言えないが、少なくとも「日本語は付帯質を前に持つ」というOCOTの言葉から、日本語を母語としている日本人が持続空間としての身体へ直結しやすいのは日本語の精神によるところなのだろうと思う。

最後になぜ私が身体、身体空間に注目するのか。
ひとつは直観を得るため。もうひとつはヌーソロジーのいう構造、カタチの答え合わせをして腑に落とすため。
最上さんに教わった稽古で味わう感覚は、どんな動きにも適用できるものだろうと今は考えている。日常動作、スポーツ、西洋の舞踏であるバレエなどにも。
それが日本語話者ならではの強みだとも思っている。
日常動作、日常生活が座ることと同じになるような動きをしたいというのが壮大な目標だ。

いったんこのままupしてみるが、サロンの質問箱で半田さんに質問してみようと思う。
実はこの投稿は、質問するための説明の目的で書いた側面もある。
Twitterの文字数を気にしながらだと書きづらいと思ったから。
頂いた回答は半田さんの許可を得られたならば、またブログにupしたい。