わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

ブログ名を変更します。

ブログを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。

ブログのタイトル『ヌーソロジーを学んでいます』を変更します。
そう決めたきっかけは、率直に言ってしまえばサロンメルマガ『スピナーズ』1月分第49号になります。
きっかけはメルマガですが、この半年ほど私の中に思うところが育っていった結果だと思います。
ヌーソロジーは学び続けますが、標榜するのはやめようと決意しました。

これからは、ヌーソロジーを学び始める前から知りたいと思い続けている「わたし」について自由に書いていこうと思います。もちろんヌーソロジーの観点から書いていくことにはなると思います。「意識の違いは空間の違いである」という私の経験に最も近いものがヌーソロジーですから。
今まで通り、時折思い出したかのような、いい加減な更新にはなります。

『わたしを知るもの好きがたり』をどうぞよろしくお願い致します。

2024年立春 松浦 由佳 

追記
ここまでは昨日2月4日にupした文章です。
いつもならばブログ更新のことはX(旧Twitter)で告知するのに今回はしませんでした。
これは私の弱さです。本当のことをしっかりと話すことが怖かったから。
私が何もわかっていないことを晒すような気がして怖かったからです。
でもそれもやめようと思い、追記することにしました。

メルマガを読んでタイトルを変えようと思った理由は二点あります。
サロンという閉ざされた場での発言なので、この公開の場で内容を引用するのは間違っている行為だという認識はあります。しかしあえて引用します。もちろん半田広宣さんご本人に確認はとっておりません。抗議があればもちろん削除します。
ただヌーソロジーが今後、人間の認識を変えていくという大きな責務を担っているのなら避けて通れないことのように感じています。私は人間の「認識を変えていく」ことが最も大切だというOCOTの発言に心から同意しているので、ヌーソロジーの可能性を信じています。しかし今回のメルマガをきっかけに「ヌーソロジーを学んでいる」ということを標榜する自信がなくなった、恥ずかしいという思いが湧いてきてしまったというのも事実です。

一つは松本人志氏についての以下の記述です。

結論から言えば、報道されているニュースが事実であるのなら、彼の行為は著名人として、あまりに自覚を欠いた行いであり、当然、TVをホームグラウンドとして富と名声を得たからには、同じメディアによって裁かれるというのも当然の報いだとは思う。ただ、彼自身の初期対応のミスも手伝って、騒ぎは拡大していくばかりで、この間、文春の方は二弾、三弾、四弾と執拗に暴露記事を畳み掛け、Youtubeでは再生数稼ぎ目的の連中がこぞって似通った動画を垂れ流し、気がつけば、トップ芸人の松本人志はひと月も経たないうちに極悪非道の人非人のようなイメージに変えられてしまった。こういう言い方をすると、女性の皆さんからは大変、顰蹙を買うかもしれないが、別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない。一芸能人のスキャンダルにここまで世間がヒートアップする必要もなかろうにと僕なんかは思ってしまうのだが。他人事ながら、ここまでくるとさすがに気の毒だ。

事実は裁判でも明らかになっていないので松本氏の事件のことについては何も言えません。
でも私が気になったのは「別に彼は人を殺すなどの重罪を犯したわけでもない」という一文です。これが性加害についての半田さんの見解かと思うと大変なショックを覚えました。このメルマガについてのXのポストにも「某芸人の性加害事件の話についての感想」とありました。なのでこれが半田さんの性加害についての見解であると認識しました。
確かに刑罰の量刑から言えば性加害は殺人よりも軽いです。
しかし私は性加害はその人の魂に対する加害だと思っているので、その罪の重さは殺人とさして変わらないと考えています。

もう一つは「社会のホワイト化」についての記述です。長くなりますが引用します。

昔、ドゥルーズが、地球の裏側で起きたことを、まるで自分の足もとで起こったことのように感じることのできる感性のことをさして、「左翼的なもの」と言っていたが、今は、この感性がまるまる悪い方向へと転倒し、「遠く起きている事を自分事として感じ取り、近く起きていることを他人事と感じ取る者たち」で溢れかえっている。まさにヌーソロジーでいうところの他我化そのものだ。自分の現実に目を向けたくない人間ほど、見ず知らずの他人のことに口を出したがるものだが、その原因は、本人が外的自己(他人から見た自分)に囚われてすぎているところにある。他人から見た自分と、自分から見た自分は全く違うものなのだから、外部の評価に悩まされる必要など、もともとないのだ。他人の言葉に振り回されて、一度、自己否定なんてしてしまおうものなら、それこそ、スマル一直線、クズ化する。
 で、最近、この傾向にますます拍車をかけそうな言葉を耳にした。「社会のホワイト化」というやつである。言い出しっぺはかの岡田斗司夫氏なのだが、彼によれば、最近は社会がどんどんホワイト化して行っているのだと言う。「社会のホワイト化」とは、「美しいものは正しい」ということを絶対の価値基準とする風潮のことを言う。ホワイト化した社会では、見た目が美しければ、それは正しいものとされ、逆に、汚なければ、それは正しくないという烙印を押される。極端な話、見た目が悪い人間は中途半端な人間であり、最近では、不潔なものや気持ち悪いものを許さない社会になってきているというのだ。もちろん、これはパブリックでの話であって、プライベートの話ではない。パブリックとプライベートはきれいに二分されている。つまり、パブリックであればあるほどキレイであることは当たり前で、キレイでないものは社会から排除されていく。そういう話だ。僕には、まるで、現実の社会自体がメタバース化して行ってるかのような話に聞こえるのだが。。

ということは、これから先の時代はどこもキラキラで、キレイが正義の、見た目至上主義の社会になるということなのだろうか。目に見える部分、うわべの表面だけが私たちの価値判断の基準となる社会。これは、ヌースでいうなら、最終構成による、人間社会に対する当然の要請と言えるのかもしれない。というのも、現代人にとって最もダーティーなもの、忌み嫌われるものは「死」に他ならないからだ。つまり、汚いものを見たくないとする欲求は、無意識による死の隠蔽につながっているということだ。

 自分はそんなにキレイである必要もないと思っているのに、社会にキレイさを強要され、自分もその価値観を受け入れ、それに無条件に追従していくなら、自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく——普通の言い方で言えば、外の外の方向へと意識の位置が落ちて行っているも同然だろう。これは、徹底して世界から自己なるもの(人間の外面)を排除しようとする無意識の流れのようにも見えるのだが、皆さんはどう考えるだろうか?

 今までも、私たちは人間の内面に生み出された外的自己の姿をもって同一性の世界の中へと投げ込まれ、その中で、差異としての学歴や収入、社会的地位やルックスなどで人の優劣を判断し、そこで差別意識も生まれていた。しかし、そこにはまだかろうじて、人間性や人格といった内的自己に価値を見ようとする方向性も残っていた。社会のホワイト化はそれさえも切断しにかかっているというのは言い過ぎだろうか。人間の価値観を完全に人間の内面の中に封じ込め、もし、外面的なものとの完全な切断を図ることがホワイト化の正体であれば、社会のホワイト化とは、ブラックホールの中への落下以外の何ものでもない。 

ここに書いてあることに何の異論もありません。他我化についても「社会のホワイト化」についても全くその通りだと思います。

ではなぜ問題視したのかというと、この「社会のホワイト化」の本質「自分の外面世界(ヌース的意味)よりも、他者の外面世界に同一化し、自分の内面世界からすらも落下していく」ことに、生成AI画像と同じ本質があると考えるからです。

以前にも書いたように、生成AI画像の生成に使われるビッグデータは多数の数値化された情報です。自己の持続が顔のない多数の他者と同じような単なる情報に置き換わってしまうことになります。
生成AI画像の描写力、線の美しさ、発想力は人間が描く絵を超えていると思います。
しかしこれはうわべの表面だけの美しさであり、そこに人間の持つ持続は全く含まれていません。美しさだけで生成AI画像を礼賛する姿勢に疑問を持ちます。
さらに生成AI画像が見る者にどのような影響を与えるのか、実際にはまだよく分からないものだと思います。
私自身は生成AI画像を出力した経験は僅かしかありませんが、プロンプトを入力し出力した本人が生成AI画像を見る場合と、そうではない人が同じ生成AI画像を見る場合ではその影響が全く違うと予想しています。

最終構成の対化として現れている生成AI画像。この扱いについては慎重になって然るべきだと思います。他者に自分の出力した画像を見せることの意味を考える必要があるのではないでしょうか。
「社会のホワイト化」も最終構成の現れです。ならば同じこととして生成AI画像についても考えて欲しかったというのが率直な気持ちです。

長くなりました。ここまで読んでいただきありがとうございます。
何かございましたら、Xまで返信をお願い致します。

2024年2月5日 松浦 由佳