わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

頭でわかっているつもり・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか①

2015年にψ3を再発見できたのは、以前書いたように、本腰を入れて空間認識を変えようと、空間に対して向き直したのが大きいと思う。それまでは「頭でわかっているつもり」になって怠っていたが、空間認識を構築するには、丁寧な思考のトレース(円心やNCの理解etc.)と感覚への落とし込み作業(ぐるぐる回ってみる、認識の組み立てを習慣化するetc.)の反復が必要だと思う。 

noosmonozuki.hatenablog.com

 では何故長い間、「頭でわかっているつもり」になっていたのか。

実はヌーソロジーに出会う前も、同じことをやらかしていた。今だからわかるのだが・・・。

ある本がきっかけで1992年から約6年間スピ系心理学セミナー(心理学を謳ってはいるが、内容はスピという意味)に通っていたことがある。そのセミナーの考え方を簡単に説明すると、
 ・「見られている自分」、「見ている自分」に分けている。
 ・日常の「見られている自分」から、自己成長のために「見ている自分」に意識を変える。
 ・意識を変えるには、思考、言葉を変える。思考により、感情、体感が変わる。
 ・体感を大事にする
 ・すべて自分(顕在意識、無意識ひっくるめて)が選択している。
の五つである。実際にはそのセミナー独自の用語があるが、割愛する。

提唱者は、ヌーソロジーのいう持続空間を認識していたのだろうと、振り返ってみて今は思う。でも説明が二項対立だった。ある一面を捉えていたに過ぎない。ヌーソロジーの凄さは、空間構造を幾何学的に扱うことはもちろんだが、四値関係、キアスム構造にあると思う。単なる二項対立だと、私みたいに勘違いする輩が出てくる。

セミナーを通して、自分が何を思考しているか、感情の原因となる隠れている思考について徹底的に客観視する訓練はできたと思っている。ただ、このセミナーの理論をすんなり(もちろん頭で)理解したことによって、「全部わかる〜」と天狗になっていった。このようなときは上から目線になるし、妙な高揚感、エネルギッシュさがある。
だが時間が経つにつれ、だんだんと苦しくなっていった。

絶対の不動の一点を見つけた今思うのは、この一点の代わりに、自我は何かを求め続けるのではないかということだ。

何か芯や核のようなものを得て存在の基盤としたい、不安に駆られたり、二極に揺れ動く心を安定させたいという欲求を持つのではないだろうか。
代わりになるものは人によって様々だと思う。「〜という私」「〜である私」の「〜」には色々なものがはいる。

だから、わかっているつもりになる。理解することそのもの、「私、わかってる」という状態が、空いている穴を埋める代替物になって、それを条件として安心を得ようとする。しかし、自我は代替物を得ても満たされることは決してないだろう。所詮は代替物だ。自己の位置の代わりにはならない。

そしてさらに、自己成長という考え方、今の自分を変えようという発想そのものに、これを強化させる仕組みがあると思う。
自我を対象化しているのだ。対象として、それを変えようとすれば、必ず抵抗は起きる。否定から入れば、守りに入るのは当然のことのように思う。

だから自我は変わらない。変化も起きない。何も変わらないことにあせり、だんだんと苦しくなっていく。