わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

ψ5と2018年 〜出会い以後③

2015年にψ3を能動的思考により再発見できるようになってから、それほど間をおかずにψ5の空間、不動点を捉えられるようになった。週に1回、片道30分の道のりを歩いて往復するのだが、その歩きの時間は格好の練習の場だ。きちんと空間を認識できているときは、歩いていても私は動かないのでわかりやすい。空間が動く様子は見ていて楽しい。景色が明るくなる感じで、木々の様子や季節の移り変わりもよくわかる。何か感情的になることや考え事に囚われている時は、全くできない。そんな、持続モード(変換人型ゲシュタルト)と日常モード(人間型ゲシュタルト)を行ったり来たりする感じだ。

そしてψ5の不動点が馴染むようになってきた2018年、あの「蓋をして見ないようにしていたこと」を思い出させる場面に遭遇した。

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 きっかけはTVだった。あの“ダークサイドに落ちるほど”の出来事に深く関係する場所が、長い時間画面に出ていた。あまり変わってはいないようだ。見覚えのある建物群、面した道路、電信柱・・・映像に重なるように、当時のことがありありと思い出される。身体は緊張するし、呼吸も浅くなる。

その時だ。ふと「こういうときこそ、“無限遠点に立つ”だな」と思い出した。

私は、日常の感情的なことに囚われた時、例えばパートナーと喧嘩して怒ったりしたときなどに「無限遠点に立つ」を自分の中の合言葉、きっかけにしていた。それを思い出して目の前の持続空間を意識し、構築していく。するとなぜか早く収束するのだ。自分のことを、他者のことをいい悪いで裁かない位置、全く違う位置に立つことができる。

しばらくすると、「あれから、22年経つんだな。今44歳。同じだけ生きてきた・・・。もういいんじゃないかな」という思考が浮かんだ。すると、自分が何に囚われてきたのか、何に蓋をしてきたのか、急に思い出し、涙が止まらなくなった。ありありとその情景が蘇る。

急に思い出したこと。それは、直接の出来事ではなく、それに付随して、後日起きたことだった。私はすっかり忘れていた。だけど、直接起きたことそのものと同じぐらい、もしくはそれ以上のダメージを受けた出来事だった。
しかし、思い出し、感じきることで、登場人物の言動の背景を想像する余裕も生まれた。これはこれでいいと、呪縛を解き、私自身を解放した。
パートナーにこれらのこと、何が起きたのかを初めて詳細に話すこともできた。それまでは、ざっくりとしか話すことができなくて心配もかけていた。私の中で整理され変換、昇華したからだろう。

 タイトルを「ψ5と2018年」としたのは、顕在化したψ5の不動点を見出していなかったら、きっと思い出すことさえできなかっただろうと思うから。
持続空間は記憶そのものであるという。そして自我であるψ6を見守る位置が、顕在化したψ5の不動点だと私は考えている。自我と向き合うとき、ψ5を発見していると、とても楽になると思う。