わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

「ふるさと」って?

わたしには「ふるさと」というものがない。
生まれた時から父の転勤で引越しが続いた。
父は実家と縁が薄く、冠婚葬祭にしか戻らなかった。母は高校まで「ふるさと」で育ったが、その後、母の両親(わたしの祖父母)と共に東京に出てきてからは、祖父母宅には頻繁に出入りしたものの「ふるさと」には戻らなかった。
よって、わたしには正月やお盆の帰省、お彼岸やお盆の墓参りという経験がない。
根なし草のような感覚があったのだろうか。小学生の頃から団地の一角に割り当てられた小さな畑に野菜を育てていた。きっと無意識に大地とのつながりを求めていたのだろう。
現在住んでいる地域は実家にも近く、過ごした年数も人生の中で一番長くなった。しかし、ここを「ふるさと」と思ったことは一度もない。

以前こんなTweetを読み、イザイホーの動画、計2部を見た。

共同体の儀礼。その島に生まれ育った女性が神職者になるためのもの。
イザイホーが「女なるもの」の表れであることは直感的にわかる。深いエロスもあるのだろう。しかし、どうしてもこれを受け入れることのできない何かを感じた。

わたしは、土地との縁が薄いばかりか、女性性を受け入れたとは言い難い人生を送っている。子供を産み育てた経験もないし、一時は女性性を否定した経験もしている。だから女性であって女性ではなく、「女なるもの」の対極の成れの果てのようなものだ。

そんなわたしが斜めから引いた目線で見たイザイホーに感じたものは、無言に当たり前のように被さってくる、和や協調という名の全体性。ムラ社会。黄泉のイザナミ
自我が個として自覚され、自分軸を持てるようになるのは近代以降。それ以前の個が成り立っていない状況のものにとても違和感を感じてしまう。そして新しいイザナミがその力を発揮するのは、顕在化以降、もっと先のことだと考えている。

今読んでいるアナスタシアシリーズでは「一族の土地」と言って、1ヘクタールのダーチャ(農園)に木を植え、家を建て、野菜を作り、そこで子供を産み育てるという考え方がある。
また、4巻には「祖国」についての以下のような文章がある。

「地球全体が、地球に住む一人ひとりにとっての祖国になり、そして大宇宙のすべてが地球に住む人間を愛撫するには、すべての次元空間を一点へと結集させることが不可欠。その一点を自分の祖国と名づけ、そこに自分で、あなたの愛の空間を創造する。大宇宙の最善のものがその愛の空間に触れるようになる、あなたの祖国である次元空間に。そしてその一点を通して、あなたは大宇宙を感じる。比類なき力を手にする。他の世界もそのことを察知する。神が、私たちの創造主が望んでいた通りに、すべてがあなたに仕えるようになる」

これを読んだ時はΨ5かとびっくりしたが、私の思う「ふるさと」は、アナスタシアの言う「一族の土地」や「祖国」のイメージだ。

その場所で、わたしは半田さんがライブで紹介した「アナザー・プレイス(アントニー・ゴーグリー)」のような、一人一人が霊的に個体化し、自ら立っている様子を見たい。顕在化した付帯質の内面の世界に立ち、ひとり祈る。ひとりなのに、ひとりではない。そんな場所に立ちたい。

ビギナー向けライブ#013 より