わたしを知るもの好きがたり

「わたしを知る」をテーマに自由に書いています。

物語は続く

はじめに」に書いたように、半田さんのあるTweetがきっかけでブログを始めた。一つの事例として自分のことを挙げてみようと思いたったからだ。

まず、ヌーソロジーに確信を持つきっかけとなる出来事を書いた。

1989年12月  〜ヌーソロジー以前①
ときたま、不意に訪れる 〜ヌーソロジー以前②
終わり 〜ヌーソロジー以前③

それから、ヌーソロジーとの出会い、出会ってからのことを書いた。

出会い『2013:人類が神を見る日』
2002-3年渋谷ヌースレクチャー 〜出会い以後①
2015年 〜出会い以後②
ψ5と2018年 〜出会い以後③

そして、今振り返ってみて、自分なりの考えを書いた。

頭でわかっているつもり・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか①
自我あれこれ・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか②

ヌーソロジーのいう顕在化の世界に至る道筋は、ヌーソロジーに限らず様々あるだろう。
ただ、私が思うのは、きちんと空間構造を組み立てて能動的思考を続ければ、誰でも迷わず、条件ぬきでその世界に立てると思うのだ。その世界ならではの、身体感覚、気持ち、倫理になることができる。

そして、自我との付き合いを楽しく続けながら、思考を深めていく。
自分を見つめ続けることをやってきてよかったなと思う。

 

物語を物語としてそのままに置く。
物語の世界に浸って喜怒哀楽を楽しむのもいい。
ただ、物語を評価したり、改変しようとか、総括しようなんて思わないこと。
物語をぞんざいに扱わないこと。大切に、大切に。
物語はそのままで、すべて素晴らしい。

 

「第2章 冥王星シンドローム」  ビギナー向けライブ#003

ライブは本論ももちろん面白いのだけど、質疑応答がとても楽しい。色々な方向、視点からの内容に刺激を受けるし、勉強になる。

【メモ】
ケイブユニバースと物質階層の対応性について

・ミクロから人間の大きさに至るまでの精神空間-前、時間、持続空間

・人間からマクロの特異点までに至る巨大な宇宙空間という精神空間-後ろ、空間、延長空間

自己と他者の対化

 

人間の身体が要。自己の身体と他者の身体。どっちが欠けても成り立たない。

メルマガスピナーズ5号

次回のエキスパートライブのゲスト、『2013:光の箱舟』の共著者、砂子氏についての内容だった。
2003年のレクチャーでお見かけしたような、しないような・・実はよく覚えていない😓
詩人河村悟さんの印象が強すぎて、吹っ飛んでしまっている。

数式とか出てきて難しいのかな。ついていけるといいけど。

自我あれこれ・・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか②

私はずっと、前記事①で紹介した某セミナーや心理学・スピ系の本の影響で、ヌーソロジーのいう顕在化にも自己成長、自我の成長が必須だと信じていた。

「いつもの私と考え方、物事の捉え方、気持ち・気分がまるっきり違う。」という過去の一連の経験から得た気づきを生かすこともできなかった。自分が成長してそこに到達するんだという目標に変質させてしまう。
結果、自我を変えようとする。ヌーソロジーに対して「頭でわかったつもり」になるという同じことを繰り返し、長い間何も変わらず・・・という状況になる。

以下、私が患った「頭でわかったつもり症候群」の症状である。

●人間の外面、青、noos=良い、人間の内面、赤、nos=良くない、スマル=悪いに分類してた。
→今思うと、可笑しいやら、恥ずかしいやら。しょうがないなあ・・・と思うが、自己を成長させようと必死だったのだろう。そういうことにしておく。

シリウス言語の解釈がコロコロ(当時はそう感じてた)変わることに大丈夫かなと不安になった。
→ヌーソロジーを“わかってるということ”を不動点の代わりにしていたのだから、その代替物が不安定なのは許せなかったということだろう。

●半田さんが宗教教育の厳しい家庭で育ったのは本で知っていたけど、それが某新興宗教で、かつバリバリの幹部のおうちだったとブログで知って不安になった。
→いわゆる伝統宗教ならまだしも明治以降にできた宗教団体や組織なんてという偏見が強かった。利害を追求し排他的になる、組織としての宗教が問題なのであって、新旧は関係ない。ヌーソロジーの構造が身体性に結びつけば、組織としての宗教とは正反対のものであることは自明のことだ。

●半田さんと意見や考えが同じどうか、認められるかどうかを気にする。
→これは2013年のレクチャー1回目の出来事が象徴的。自我ってそういういうものだと今は思う。

●考えることより感じることの方が大事だと思ってた。
→自分が感じること–––––これにこだわっていた。このこだわり、自我ならではだと今は思う。前に通っていたセミナーの影響だ。
しかしこれは、今どこで感じているか、正確にいうとどこで思考しているかによって、全く正反対の方向に向かう恐れがある。感じよう、感じようとして、すごく苦しくなったからよくわかる。今思えば、「おいっ、違うだろ」って方向へ行って苦しくなるのだ。真逆になる。
自分と物、自分と空間の関係を構築するヌースの思考をしていけば、この間違いはなくなる。
「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える。そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえをも凌駕し、人間の意識全体を全く別のものへと変容させていくのです。 意識進化とはそういうものです(p. 149人神アドバンス)」
これに尽きる。

少し話がそれるが、半田さんが「ヌースは〈頭だけだ〉とか、〈身体性がない〉とかよく言われる」と度々tweetしているのを見かける。そんなふうに頭で判断している人たちに伝えたい。実にもったいないと思う。能動的思考に伴うものを経験したら、そんなこと言ってられないよ。思考のあとから、すべてついてくる。
まずは、思考する。思考だもの、合わなかったり気に食わなければ、そう思考するのをやめてしまえばいい。捨てればいい。

自我のことを書いてきたが、今も私は自我だけのモードと、自我と不動点の両方を意識しているモードの二つを行ったり来たりしている。どれだけ意識的でいられるかで、その割合が徐々に変わってくるのだ。

月刊ヌースエキスプレス#2「ヌーソロジーと哲学 2」

エキスパート動画、哲学の2回目。
前回「17世紀になって極め付けの人が出てきます!」でつづくとなっていた。
私は”極めつけの人”をスピノザだ〜🤗、やっと出る〜!と思い込んで楽しみにしていたから、動画を見て苦笑。あっ、デカルトね・・・。デカルトの存在をすっかり忘れてた。

動画を見て、少しニーチェに興味を持ったので、ネットを検索中、出会ったページを思わず読み込んでしまった。benedict.co.jp

こんな妹さんがいたの!?えっ、これ本当?ワイドショーもしくは女性週刊誌見てるみたいな感じで読んでしまった。ニーチェファシズムの図式は彼女が作ったのね。

ニーチェを、全体の構造を理解せず表面の字面だけで読んだら勘違いしちゃうということなのだろう。半田さんの動画の解説を聞いていて良かった。でも踏み込むのは止めておこう。

頭でわかっているつもり・・・なぜψ3の顕在化までに15年かかったのか①

2015年にψ3を再発見できたのは、以前書いたように、本腰を入れて空間認識を変えようと、空間に対して向き直したのが大きいと思う。それまでは「頭でわかっているつもり」になって怠っていたが、空間認識を構築するには、丁寧な思考のトレース(円心やNCの理解etc.)と感覚への落とし込み作業(ぐるぐる回ってみる、認識の組み立てを習慣化するetc.)の反復が必要だと思う。 

noosmonozuki.hatenablog.com

 では何故長い間、「頭でわかっているつもり」になっていたのか。

実はヌーソロジーに出会う前も、同じことをやらかしていた。今だからわかるのだが・・・。

ある本がきっかけで1992年から約6年間スピ系心理学セミナー(心理学を謳ってはいるが、内容はスピという意味)に通っていたことがある。そのセミナーの考え方を簡単に説明すると、
 ・「見られている自分」、「見ている自分」に分けている。
 ・日常の「見られている自分」から、自己成長のために「見ている自分」に意識を変える。
 ・意識を変えるには、思考、言葉を変える。思考により、感情、体感が変わる。
 ・体感を大事にする
 ・すべて自分(顕在意識、無意識ひっくるめて)が選択している。
の五つである。実際にはそのセミナー独自の用語があるが、割愛する。

提唱者は、ヌーソロジーのいう持続空間を認識していたのだろうと、振り返ってみて今は思う。でも説明が二項対立だった。ある一面を捉えていたに過ぎない。ヌーソロジーの凄さは、空間構造を幾何学的に扱うことはもちろんだが、四値関係、キアスム構造にあると思う。単なる二項対立だと、私みたいに勘違いする輩が出てくる。

セミナーを通して、自分が何を思考しているか、感情の原因となる隠れている思考について徹底的に客観視する訓練はできたと思っている。ただ、このセミナーの理論をすんなり(もちろん頭で)理解したことによって、「全部わかる〜」と天狗になっていった。このようなときは上から目線になるし、妙な高揚感、エネルギッシュさがある。
だが時間が経つにつれ、だんだんと苦しくなっていった。

絶対の不動の一点を見つけた今思うのは、この一点の代わりに、自我は何かを求め続けるのではないかということだ。

何か芯や核のようなものを得て存在の基盤としたい、不安に駆られたり、二極に揺れ動く心を安定させたいという欲求を持つのではないだろうか。
代わりになるものは人によって様々だと思う。「〜という私」「〜である私」の「〜」には色々なものがはいる。

だから、わかっているつもりになる。理解することそのもの、「私、わかってる」という状態が、空いている穴を埋める代替物になって、それを条件として安心を得ようとする。しかし、自我は代替物を得ても満たされることは決してないだろう。所詮は代替物だ。自己の位置の代わりにはならない。

そしてさらに、自己成長という考え方、今の自分を変えようという発想そのものに、これを強化させる仕組みがあると思う。
自我を対象化しているのだ。対象として、それを変えようとすれば、必ず抵抗は起きる。否定から入れば、守りに入るのは当然のことのように思う。

だから自我は変わらない。変化も起きない。何も変わらないことにあせり、だんだんと苦しくなっていく。

 

エキスパート向けライブ#002「ヘキサチューブルの現在」

ヘキサチューブル。YouTubeに去年upされた「ヘキサチューブル談義」シリーズが難しいけど、大好き。

アニマンダラさんがBlenderという無料3Dソフトで作成されたヘキサチューブルの画像をupされていた。とてもきれい。今年の年末にレクチャーを予定してるらしい。
半田さんが使ってるソフトは、シネマ4Dというものらしい。HPを見たけど高価だ!

無料だからと、早速Blenderをダウンロードし、ほんのちょっとだけいじってみたが・・・わけわからん。
Macの基本ソフトしか使ったことのない私からすると、ハイパー異次元の世界。こんな複雑なものが無料なんて、なんで??って逆に思っちゃう。真っ暗闇のなかを少し探検してみるか。